「<二つの大学>を知る卒業生から」 内田 純一(3期生)

 多摩大学の第二の学科として、「レストラン・ホテル学科」が計画されていたことがあります。 草創期の多摩大に在学されていた方は、初代学長の野田一夫先生がこうした観光関係の学科新設を構想していた*1ことをご記憶のことでしょう。 結局のところ新学科開設は実現しませんでしたが、当時は寄付講座の枠組みを活用して、 ホテル経営論をはじめフードサービスやレジャー産業に関する産学協同型の講義が集中的に公開*2されるなどの取り組みも行われていました。 私にとって特定の業界を集中的に学ぶ初めての経験だったこともあり、経営情報学の実践適用という問題に強く興味を持つ契機となった講義でした。 当時は立教大学の観光学科*3のほか、いくつかの大学に観光関連学科があったのみでした。 しかし、最近になって政府が観光立国宣言を打ち立てて以降は、全国の大学で観光関連の学部・学科設置の動きが一大ブームになっています。昨今の新設ラッシュを見るにつけ、もしあの時にレストラン・ホテル学科が開設されていたら多くの人材を産業界に輩出していた頃だろう、と少々残念な気持ちもあります。

 何かの因果なのかもしれませんが、多摩大学を卒業して十数年後に、私は北海道大学大学院の観光創造専攻の立ち上げに参加することとなり、現在はその専攻で教壇に立っています。北海道大学には地域活性化の起爆剤となるような役割を発揮することが期待されており、我が専攻が目指すビジョンも、地域が持つ固有の文化や伝統といった資源を軸にした「地域発」の観光を創造するという点に重心があります。多摩大学で構想されていたレストラン・ホテル学とは少し違った方向性ですが、新専攻をつくるにあたって、大学時代から観光分野への関心を持ち続けていたことが非常に役立ちました。思い返せば、私が専門としている地域企業・地域産業という領域に関心を持つきっかけもまた、やはり在学時代に遡ることができます。学部長であった中村秀一郎先生や所属ゼミの教授であった柳孝一先生の講義や著作は、ベンチャー企業や中小企業に光をあてつつ、とりわけ地方に立地する企業の可能性にも目配りされていたことが強く印象に残っています。法政大学と浜松大学との間で3大学合同ゼミを運営し、浜松に遠征したことも懐かしい思い出です。

 関東地方で生まれ育ち、東京の金融機関に就職した私が、北海道に転勤したことで再び地域の可能性を考えるようになり、さらにはそのまま北海道の大学に転職して、それを追求し続けていくことになったのは、やはり多摩大学で学んだ影響が大きかったように思います。その意味で私は多摩大学に対して非常に感謝しています。とはいえ、大学と学生との関係は在学期間だけに限られたものではありません。卒業した後は、OBとして大学を支え続けるため、卒業生は母校の現状に気を配るべきなのです。結局のところ、卒業生が支えてくれない大学など誰にも支持されはしないのです。私は、北海道大学が卒業生の力を借りて発展する例を間近に見てきました。多摩大学が新学科*4と新学部*5を相次いで設置して新たなステージ*6に入った今、大学側も卒業生との関係作りをそろそろ意識していく必要があります。私は大学人であるが故に、多摩大学を見る目は他の卒業生よりも若干厳しいかもしれませんが、時には建設的な批判もできるよう、これからも母校を見守り続けたいと思っています。

*1 『大学を創る-多摩大学の1000日』野田一夫著(紀伊國屋書店, 1991年)に、開学前後に野田学長自身が関係者に宛てて送っていたハガキ通信が収録されており、新学科構想の記載があるほか、『多摩大学』室伏哲郎編(二期出版, 1990)のインタビュー記事にも野田学長が新学科に言及した部分がある。
*2 これらの講義は多摩大学ビジネス叢書のレクチャー・シリーズとして実教出版から1993年に刊行。いずれも多摩大学総合研究所と産業界との産学協同方式で開講され、出版物も総研と協力企業・団体との共同編集の形式となっている。シリーズ番号順に列挙すると、『レジャー産業を考える』・『ホテル経営を考える』(以上、大和ハウス工業生活研究所との共編)、『フードサービス経営を考える』・『フードサービス産業を考える』(以上、(社)日本フードサービス協会との共編)、『ニューオフィスを考える』(イトーキ総合研究所との共編)の5冊が刊行された。
*3 立教大学社会学部に観光学科が設置されたのは1967年で、初代学科長は立教大学在職時代の野田一夫教授。学科設置のための文部省(当時)との折衝役を引き受け、初代学科長に就任するまでのいきさつは、『私の大学改革』野田一夫著(産能大学出版部, 1999)などに書かれている。なお、同書には「二つの大学」(『経営・情報研究 多摩大学研究紀要 No.3』野田一夫著)という論文が収録されているが、本メッセージのタイトルはこれにちなんでいる。余談だが、立教大学の観光学科は当初、「ホテル学科」として企画されていたが、対応する学会がないということで文部省の担当官に突き返されたあと、野田一夫教授が日本観光学会の存在を根拠に「観光学科」と命名したという裏話がある。ちなみに、立教大学は1998年に観光学科を学部に昇格させ、これが我が国における最初の観光学部となった。現在は観光関連学部・学科は20校以上の大学に設置されている。
*4 2006年に経営情報学部に設置されたマネジメントデザイン学科により、多摩大学は17年もの間続いた一学部一学科体制から脱却した。ちなみにマネジメントデザインが目指す事業構想力をつけるというコンセプトは、野田一夫学長が創設に関わったもう一つの大学である宮城大学の事業構想学部(特に事業計画学科)とも共通する。近年、大学関係者の間では創造型パラダイムの教育・研究についての議論がなされてきており、マネジメントデザイン学科もこうした一連の動きの中に位置づけることが可能である。他の大学の例では、早稲田大学が第一・第二文学部を再編して設置した文学部と文化構想学部の組み合わせがある。
*5 2007年に設置されたグローバルスタディーズ学部は、いわゆるリベラルアーツ教育を行う学部の一つ。こうした学部の先駆けは国際基督教大学に1953年に置かれた教養学部であり、模範となったのは言うまでもなく米国のリベラルアーツ・カレッジであるが、日本型リベラルアーツは徹底した語学教育という特色も併せ持ち、最近では早稲田大学、上智大学に国際教養学部が相次いで開設され、この動きに追随する大学(法政大学、明治大学など)も増えている。なお、多摩大学の第3代学長であったグレゴリー・クラーク教授は、秋田県の公立大学法人である国際教養大学の開設準備委員を務め、開学後は副学長(現職)。ちなみに同大学の国際教養学部には学科はなく、「グローバル・ビジネス課程」と「グローバル・スタディズ課程」がある。
*6 従来の日本の大学は、総合大学を目指した発展経路を辿っており、学部を次々と開設するやり方が主流であった。この経路は戦後開設の新制大学にも見られ、1965年設置の京都産業大学などが総合大学化に成功している。しかし、既に少子化傾向が顕著になった今、新たに総合大学化する大学は出てこないと見てよいであろう。なお、日本の大学政策は研究大学と教育大学に二分する米国型に近づいてきており、得意分野を絞らない限り、非伝統大学が研究大学として新たに認められることはますます難しくなることが予想される。米国では、研究大学でなくとも、ベンチャー教育分野では全米一と言われるバブソン・カレッジなど、高い評価を得ている小規模大学はいくつか存在する。もちろん、教育大学としてのリベラルアーツ・カレッジは原則として小規模大学であるが、これらのなかには優秀な人材を輩出してきた伝統校も数多い。日本では一流総合大学すなわち研究大学と見られがちであるが、だからといって教育大学が一流でないということには本来ならないはずである。近い将来、文部科学省の思惑通りに我が国でも大学院へ進学することが当たり前の時代になった場合、学部教育はむしろ少人数の教育大学でしっかりと受けるというニーズが生まれてくる可能性はある。


「今となって振り返ると…」 横島 明(1期生)

多摩大学付属聖ヶ丘高校、ソフトバンクドラフト指名。
毎日欠かさず読んでいるデイリースポーツの囲み記事を読んで驚いた。
高校野球の強豪校でもないのにプロの球団から指名を受けていたのだ。
その時、何故かもう20年近くも前の出来事を思い出していた。
普段あまり思い出す事も少ないのに。
全く関わりの無い付属高校生のドラフト指名の件で記憶がすばやく駆け巡ったのだ。

合格発表を見た帰りの坂道の夕日、入学手続きの書類に入っていたCD、
パルテノン多摩での入学式、学園祭実行委員会、サークル連合会、
色々な多摩大での出来事が駆け巡った。
その時、ふと考えてみると、何故か勉強した事を思い出せない。何故か。
確かに自分自身は頭が良いとは言えない。勉強も熱心にやった記憶も無い。
そして多摩大で何を学んだ、何を得た、と答える事が出来ない。
正直寂しい思いがした。少なくても4年間学んだはずなのに...。
卒業して15年近くたって今は非常に残念でならない。
もう少しその時に勉強すれば、世の中のしくみ、出来事をもっと理解する頭が出来ていたかもしれない。
当時としては画期的な経歴の諸先生方、世の中=社会というものを存分に教えてもらえたはずなのに。
非常に残念でならない。

今、学んでいる皆さんは、このような思いをしてもらいたく無い。
これは社会に出で、ある程度の時間がたって思い返すと非常に悔しい思いをするからだ。
ひとつでも良いので、記憶に残る勉強をしてもらいたい。
そういえばこんな勉強をした、こんな事教授が言っていた。なんて事でも良いのである。
何かひとつ頭に残る勉強をしてもらいたい。

遊んだ楽しい出来事も結構だが、学んだ楽しさという事も頭に残してもらいたい。
この文を読んで、何を言ってんだかと思うかもしれないが、卒業して何年、何十年とたって、
思い出す事が出来ない事は非常に寂しい思いを在校している皆さんに味わってもらいたくないからだ。
せっかく素晴らしい学校にいるのだから...

そして卒業している皆さんには、今の時代を突っ走ってもらいたい。
多摩大学での楽しい思い出を振り返らないで、今を突っ走ってもらいたい。
そしてある程度たったら振り返ってもらいたい。楽しい素晴らしい思い出を思い出してもらいたい。
今は仕事もプライベートも充実した年代だと思うので。
私も卒業して15年近く、年齢も40近くになっています。
社会に出て、荒波にもまれ、色々ありました。
でもまだ楽しい多摩大学での振り返りは一瞬だけだと思っています。
まだまだ突っ走りたいと思っています。まだまだ走り続けたいと思っています。
多摩大学の栄光と共に...

あとがき:
京王百貨店新宿店 紳士靴・スポーツシューズ売場マネジャーとして 頑張っています。
靴をご購入のお考えの方は是非当店で。 結婚して6年、まだ子供はいません。
熱烈なタイガースファンです。今夜も快勝と喜んだ広島のホテルにて..


「多摩大学に在籍した4年間」 平尾 知世(9期生)

多摩大学に在籍した4年間、ある意味自分の今まで見えていなかった所を導き出してくれた4年間だったと思う。

○ 学園祭実行委員
○ 近藤ゼミ(サービスマネジメント)

この2つが自分を変えてくれた。
正直入学当時は、学園祭実行委員なんて興味が全くなかった。
なのにいつのまにか...入部していた(笑)
そこからの年間は、あっという間の3年間だった気がする。
サークル感覚のFriendlyさがあるが、大勢のメンバーで「学園祭」という年1回しかない行事を作り上げる。
それもかなり真剣に...
1時限目から4~5時限目まで授業に出て、その後から23時頃まで活動、
1年間 365日のうちのほとんどの日を活動していたと思う。
時にはそのまま友達の家でお酒飲みながら打合せをしたり色々と語り合っていた。
その時鍛えられたのか、仕事で残業しているときは夜の方がテンションが高い(笑)

1つの企画を立てるときに『Plan ― Do - See - Check』の流れがある。
企画もそうだが学園祭を作り上げるのに、1人ではできない。
仲間と協力し、フォローしあって作り上げていかないと到底できるものでない。
なにげにその考えは今の営業の仕事の基盤になっていた。
営業は、お客様から仕事をもらってくる。
そこから会社とお客様を結びつけるパイプ役としてお客様の立場に立っての意見、
会社の立場に立っての意見をうまく結びつけ ”いいモノ” を作り上げるのである。

バイトをして好きなものを買って遊んでの学生生活とは真逆な大学生活(笑)
学園祭1週間前ぐらいになると学校での泊り込みありで睡眠時間も1日に2~3時間は当たり前。
けど、学園祭が終わったあとの打ち上げの最初の1杯のビールがたまらなく美味しかったし、
一生忘れられない。この1杯があったから続けていられたのだと思っている。

2つ目は、専攻サービス「サービスマネジメント」との出会いである。
「顧客満足」を与えるにはどのようにすればよいか?
どういうことをしたら人(顧客)は喜ぶのだろうか?
いくつかある考えの中で「特別な経験・体験をしてもらうこと」が印象に残っている。
授業でよく例えられていた、ディズニーランド。非現実世界への体験。
今までなんとも思っていなかった事を、当たり前と思っていた事をこの考えにあてはめてみると意外に面白い。
「電 車」=空間サービス
「美容院」=髪を切るサービス
サービスを受ける人と与える人が同時でありサービスは体験なのだ、
という考えが自分の考えや感覚を変えてくれた。

自分の仕事に置き換えてみると「営業は売ること」の考え方から
「実際にシステムを稼動させるまでが営業」となる。
書くのが遅れたが、私は今システムコンサルタントをしている。
この考え方を持つことでお客様との接し方も次第に変わってきたし、お客様からの信用度も増してきた。
満足感を得てもらえることで次のお客様を紹介してくれるのだ。

プライベートでは、飲み会の幹事をやる時に時々サプライズバースデーをやっている。
その時イベントを考えることも楽しいが、「喜んでくれる笑顔」が自分への満足感となっている。
顧客満足を与えられた時、自分の満足感も充たされる。

この大学時代の2つの出会いが自分の根本であり成長の糧ともなっている。
そしてゼミ、学園祭実行委員で出会った仲間は今でも飲み友達であり親友であり相談相手であり
心の支えとなっている。


「自分探し」 荒川 友博(8期生)

 私が多摩大学を知ったのは高校3年生の夏でした。高校を卒業して就職しようと考えていた私は、思うような企業への求人も見つからなかったということもありましたが「まだ自分の将来をまだ決めるのは早いのではないのか…」と思い突如大学の進学を決めました。しかし大学に進学するにしてもどんな学部に進むのかということを考えなければなりません。つまりある程度自分がどんなことをしたいのか考えなければならなかったのです。
突如のことでしたので悩みに悩みました。そんなとき「文系でもない、理系でもない」なんともあやふやな案内があったのが多摩大学でした。私は4年間多摩大学という場に進んで自分について考えてみようと受験することを決めたのでした。

 実際、経営情報学部という学部に進んだ私は、経営と情報どちらにも偏らずに学んでいこうと決意し「自分探しの4年間」が始まったのでした。簿記会計にマーケティングなどといった経営学。苦手と当時決め付けていたプログラミングや数学。とにかく得意・不得意履修前から決めつけずに興味があるものにとにかく勉強しました。もちろん苦手なものにも取り組みましたので理解についていけずに悩んだ時期もありました。しかし教授陣の方々に質問すれば補足もしていただけましたし、図書館など自分で調べる環境もありましたのでそんな悩みはいつしか無くなっていました。
そんな生活の結果いわゆるIT系といわれる情報系の企業ではなく、一般企業の中で様々な点でシステム的な仕事に携われる仕事ができないかと卒業後の将来を考えるようになれたのです。

 その後のことになりますが、大学での就職活動の際にはあまり悩むことはありませんでした。とにかく業界に関係なくシステムの仕事に携われる会社を探したのです。卒業後の春スピーカーメーカーへ就職し、経理システム、品質管理システム、受発注管理システムなど様々なシステムの構築に携わりましたが、どんなシステムに取り組むにしてもすぐに順応はできました。おそらく多摩大学で過ごした4年間苦手だろうが学ぶ気さえあればいつしか身につくといったことを学んだからかもしれません。そんな探究心は2回転職を経て現在は健康診断の健診センターなど置く、検診システムの開発に携わっています。こちらでも医学的なこともちろん難しいことは難しいですし、また開発という点でも困難を極めます。しかしやる気さえあればなんとかなる多摩大学での4年間で学んだ意識を忘れず取り組んでいます。


「OB会は2度おいしい」 福田 友哉(4期生)

 皆さんは、大学時代に入っていたサークルの仲間たちと、その後連絡をとりあっていますか?
 私が大学に入学した当時、漫画『スラムダンク』が人気を博し、空前のバスケットボールブームでした。ご他聞にもれず、アリーナでは休み時間となると、バスケをする学生が数多くいました。バスケサークルもいくつかあり、学内の大会ともなると、それは大変な盛り上がりでした。その中で、私も週2回のサークル活動を楽しんでいました。でも、”部”ではない”サークル”は、手軽に仲間内で作れる反面、作った仲間が卒業すると同時に自然消滅し、学生時代の思い出で終わってしまいがちです。ましてや、時代のブームの中で出来たサークルなどは...

 それではあまりにも寂しいし、卒業してもたまにはバスケットがしたいという気持ちで、『多摩大学バスケットボールサークル連合OB会(名称:Turbo A)』を発足しました。当時、サークルとしては別々でも、練習は合同で行うことが多かった為、このようなかたちとなりました。正直言って、それほど深くは考えず始めたのですが、今年で発足からちょうど10年を迎えます。

 社会にでて多くの経験を積むにつれ、私の中で、このOB会の存在価値が、発足当初とはまったく違ったものに変化しました。社会に出てある程度経った方ならわかると思いますが、意外なほど狭い世界のなかで生きていかなければならないことに気付くのです。生活の大部分を会社で過ごし、同じ境遇の同僚らと愚痴を言い、嫌でも会社とういう世界にどっぷりつかるしかないのです。しかし、社会には様々な業種や職業があり、そこにはそれぞれの世界があります。 同じ会社の上司や同僚と酒を飲んで話をしても、そのいろいろな世界を覗くことは出来ません。それを覗くことが出来るきっかけがOB会にあったのです。

 確かに、巷では『異業種交流会』とかもありますが、普通のサラリーマンなどには敷居が高く、近寄りがたいのが本音だと思います。わざわざ敷居の高いところにいかなくても、OB会という絶好の場があったのです。利害関係がまったくなく、スポーツを通しての付き合いであり、本音の話ができる最高の異業種交流会です。また、いろんな世代がいることで、その世代のものの見方や考え方も感じることが出来るのです。

 こうして話をしていると、すべて順風満帆のようにOB会が運営されているように思われるかもしれませんが、やはり仕事が忙しい年代や時期があったり、また結婚や出産など人生の転機を迎えたりで、参加したくてもそれが無理な人が多いのも事実です。年に1回しか参加できない人でも、繋がりを持ち続けてもらうにはどうすれば良いか一時期悩みました。ホームページの開設も考えましたが、不特定多数の人に見られることを思うと、どうしても写真等の掲載や実名を載せることが出来ない為に実現しませんでした。その悩みを、『ソーシャルネットワーキングサイト(SNS)』で、解消することが出来たのです。非公開のコミュニティを作ることによって、プライバシーも保たれた双方向のやりとりが可能になり、OB会の活動の様子はもちろん、個人の近況等も知ることが出来始めています。

 OB会は、私達が社会の中で生きていくうえで、大きな役割を果たしてくれる会になりつつあります。 社会にある自分の知らない世界を覗き、触れる場を提供してくれ、その結果、自分自身を成長させ、幅を持たせてくれる大切な会であると思っています。


「大学で学んだ『切り口』の活用」 川上 良太(14期生)

 在学時は、主に野田稔先生のゼミで組織論を学びました。もちろん中谷学長の自己発見や、イングリッシュシャワー、経営基礎、ベンチャー企業経営論などの多くの授業を通して、学び方、考え方、理論に触れてきました。しかし、仕事を選ぶ上でも野田先生の歩まれたキャリアには多大な影響を受けましたし、そもそも大学に入るきっかけも先生との出会いだったので、先生の下で学んだ組織論やキャリア論が、自分にとっての専攻でした。

 ”会社の経営をしたい”というような志をもって多摩大学に入った人ならば、卒業前に一度は考えるであろう事――どこかの会社に勤める身となるか否か――は、自分も2年前、就職活動を始める時期に悩みました。 結論としては、当時の自分は、何らかの専門性を早く身につけるには大企業にこそ良い環境がそろっている、という判断から「就職する」ことにしました。

 そんな自分も、社会人としてのFreshmanがもうすぐ終わります。1年経ってみて、ようやく自分が専門とする”システムコンサルティング”というフィールドについて、なんとなく概要がつかめる状況となりました。すると、今までは目の前しか見えていなかった視野が、一気に開けたのです。ここで活きてくるのが、大学時代に学んだ考え方やその切り口でした。ゼミで教わった多くの組織に関する理論は、学んだ当時もただ理解する事はできましたが、いざ現実の経営組織に入ってみると、その感じ方、とらえ方の現実感がまったく異なります。大学では、外から組織を見ていました。いや、組織というものの中身、実態すらわからないまま、「組織について考えている気」でいたのです。

 自分が属している組織がある。その中で自分が担うべきタスクや役割、そこから得られる様々な報酬、それらにどれだけの魅力を感じ、コミットすることができるか。コミットできないならば、その阻害要因は何か。解決する方法はあるのか。さらに得られたもの(報酬や能力)を使って、今後の自分のキャリアはどういう方向に積むのか。今は、これらすべてを具体的に中身まで含めて考えられます。料理するべき材料は目の前にあって、調理方法もすでに教わって知っていたことに、ようやく気がついたのです。

 多摩大学のことを紹介するときに使われる「実学が学べます」という謳い文句が、卒業して1年が経って、ようやくわかりました(笑)しかし、それがわかったのは本当にこの1ヶ月ほどのことで、2ヶ月前の自分といえば、ただ必死にもがいていただけでした。本当に、今さらながら、多摩大学で学んだ数々の「切り口」の活用方法が見えました。 野田先生、卒業時に約束していただいた、「もう一度先生の下で学ぶ」という約束を、そろそろ果たしにお伺いしようと思います。

 同期のみんな、先輩方、後輩たち、それぞれ大学で学んだことは少なくないと思います。特に会社などに勤めたり経営に関わるような仕事をしている人は、すでに役立っている人も多いとは思いますが、大学で学んだことを今一度思い出してみると、面白い発想や解決方法につながるのではないでしょうか。


「恩師から学んだ『理解』の本質について」 桐林 東一郎(7期生)

 「理解するとはどういう事か?」
 この質問を、ゼミの担当教授だった近藤先生に問われた事が、今でもとても印象に残っています。当時、私はこの質問に答えることが出来ませんでした。自分なりに1週間、この問について一生懸命考えてみましたが、なかなか的を射た答えに辿り着けなかったことをよく覚えています。
 1週間悩んだ末、先生に教えてもらった答えは、「たとえ話が出来ること」ということでした。つまり、「伝える相手がわかるような言葉で説明すること」という意味だということだと思います。この解答に、「なんだそんなことか」と思われる方もお見えだとは思いますが、当時の私にとっては、硬いアタマをハンマーで粉砕されたような経験でした。
 「相手がわかるような言葉で説明する」ということは、その事柄についての本質をつかんでいないと出来ることではありません。また、それを「たとえ話」にするということは、相手がよく知っている内容で、伝えるべき事の本質が類似しているものを探さなくてはなりません。どちらにせよ、きちんと本質を掴んでいなければ出来ないということです。逆に本質が掴めていないと、きちんと伝えることは出来ないということだろうと思います。
 それまで「理解」というような、日常何の疑いもなく使っている言葉の意味について、深く掘り下げることなど考えたこともありませんでした。いろいろな言葉を何となく使っていたのだろうと思います。この質問は、その言葉の持つ意味の本質を掴むことが、いかに重要であるかということを、僕に伝えるための問いかけであったのではないかと思います。また、「理解する」ということは、言葉の意味に限らず、何事においても本質へのアプローチが大切であるとも受け止めています。
 この考え方が、僕に様々なインスピレーションを与えてくれました。現在でも、この考え方が基盤となって仕事をしています。まだまだ、何事においても、まだまだ本質が掴めていない事ばかりですが、この言葉を胸に頑張っていきたいと思います。


「死へのイマジネーションから…」 堀江 秀尚(8期生)

「僕も明日死ぬかもしれない…」
高校3年の冬、クラスメートの突然の死の報に打ちのめされました。とても仲の良いクラスで、彼女はクラスの中でも一際輝く存在でした。そう、当時の僕が月なら彼女は太陽のような存在でした。高3の僕は人の死というものに直面し、恐怖と焦りを感じました。しかし十代という年齢からでしょう、それだけでは留まりませんでした。
「彼女の無念を晴らすためにも、『死ぬ気』で精一杯生き抜きたい!」と、当時の僕は思ったんです。

 そのためには「自分の好きなことをやらなくては、今すぐに!!」
今まで深く考えてこなかった分、自分は何が好きで、何が嫌いか、頭をフル回転して考えました。そして「自分は子供が好きだ!子供に夢を与えるような仕事に就きたい!」という、とりあえずの答えを導き出しました。そして教師か?、声優か?という、具体的な職業の2択にまで絞込み・・・全く未知の職業「声優」という道をチャレンジすることに至るわけです。
 当然、烈火の如く親の反対に遭いましたが、大学受験は途中放棄せず受験することと、青二プロダクション俳優養成所「青二塾」という、業界でも最難関の養成所の受験のみチャレンジを許されました。
結果・・・、皮肉なことにずっと受験勉強に励んでいた大学は全滅、熱意はオンリーでチャレンジした俳優養成所には見事合格することが出来ました。

 しかし、「それでは晴れて声優への道まっしぐら!」とならなかったのが、実に私らしいのですが、とにかく両親共から再度大学受験を促されましたし、当時『死ぬ気』でチャレンジモードに入っていた私は、「もし可能ならば是非大学も受験させて欲しい!」ということで、俳優養成所生活&浪人生活の『二重生活』に突入します。が、それは当然甘いものではなく、言葉では言い表せないくらい厳しいな生活でした。そんなハードな日々を送るうち、夏休み頃には自分の中で第二希望であった「大学への道」は揺らぎ始めたのですが、そんな時知り合いからある新聞記事の切り抜きを渡されます。
 「学長が外国人で、ベンチャー企業家を育成する大学があるんだって。これからの君にピッタリの大学じゃない?」それは当時多摩大学の学長に就任されていたグレゴリー・クラーク学長のインタビュー記事でした。ベンチャー企業家という言葉自体を知ったのがこのとき初めてでしたから、何が「これからの自分にピッタリ」なのか?当時の自分には全く分かりませんでしたが、その記事を目にした瞬間何故かビビッと来たことだけははっきりと憶えています。そしてその未知なるものへの好奇心から、ベンチャー企業家というものを調べ、声優という職業が「個人事業主=社長」という括りであることを調べ、ようやく彼の言っていた『これからの君にピッタリ』の意味合いを理解し、ここで初めて「多摩大学受験」一本化を決めることになります。
 人間具体的に目標が定まると強いもので、その夏以降は養成所での勉強も、大学受験勉強も一気に身が入り、翌年春には念願の青二プロダクションへの入所が、そして多摩大学への入学も決まります。

 今度はプロの声優&大学生という、またも『二重生活』に突入するのですが、そこからの日々は本当にあっという間でした。プロの仕事現場で「仕事の厳しさ」を体感し、多摩大学でアカデミックに学び、とても充実した生活を送ることが出来たからです。もちろん仕事と勉強の両立でスケジュール的に大変なこともありましたが、自分が好きで選んでやっていることですから全て納得済みでした。それどころかいつしか自分の中で、仕事現場で感じた問題意識を大学での勉強の場で取り上げてみたり、逆にまた大学で学んだことを、仕事現場で生かしたり・・というような前向きな流れまでもが自然に出来ていました。
 充実した生活の中にあると、人間はアイデアに溢れてくるものです。もともと子供が好きで教育に関心があった私は当時、「外国では演劇の授業が教育プログラムに組み込まれていて、効果を発揮している。日本でも是非そうするべきだ!その導入として演劇ワークショップを広めることで、世の中の役に立てるのではないか?」というアイデアを持つようになりました。

 そして、そのアイデアを実行に移したかった私は、当時レジャー産業経営論の授業で感銘を受けた杉田文章先生のゼミで、そのアイデアの実現に向け、仲間たちと共に研究に励むことになります。杉田ゼミではゼミ生たち各々が興味関心のあるレジャーのジャンルについて研究し、その研究内容をお互いにプレゼンテーションし合いました。ですから、僕自身が研究した「演劇ワークショップ」に関して様々な意見を聞くことが出来ましたし、また逆に仲間が研究した様々なレジャー、例えばサッカー、水泳、競馬、映画、音楽、テーマパークビジネスetc.とあらゆるジャンルのレジャーについても学ぶことが出来ました。
 ですから多摩大学での大学生活で一番印象的だったのはこのゼミ生活であったと言っても過言ではありません。自分の中にある問題意識を取り上げ研究し、その研究成果のプレゼンを続け、最後にその研究課題を卒業論文として纏め上げるまでの過程は、本当に刺激的で楽しいものだったと記憶しています。そして、そこで勉強したことは今も自分の中に息づいています。

 私は現在声優・俳優という職業人として生きていますが、多摩大学で培ったベンチャー・スピリットはその枠を乗り越え、勝手に飛び出してしまいます(笑)。死へのイマジネーションから始まった私ですが、今は生へのクリエーションを生きています。そうした自分を開花させてくれた大きなものに、多摩大学での学生生活があると思っています。そしてその日々にとても感謝している次第です。ですから私は、これから多摩大で勉強を志す学生に希望を与えられるような存在になれればと、今も元気に走り続けています!共に頑張っていきましょう!!


「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」 内藤 史子(5期生)

内藤 史子(5期生)


「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」
営業中、何度となく聞かされたこの言葉。場所はバンコクだったりクアラルンプールだったりシンガポールだったり。日本を離れた私が営業して回っているのは、日本語による現地のビジネス情報。高額商品ではない上、あれば便利だが無くて困るものでもない。まして契約単位は法人ごと。会社の経費で支払えばいいので、自分の財布が傷むことも無い。なので営業はマメなフォローと粘り、そしてフットワークの良さが成績に現れると思っていた。生来の口のうまさも手伝って、それなりの営業成績を取っていたつもりだったのに。時々出会う「大学ネットワーク」の壁。出身大学の同窓ネットワークを活かし、お付き合い営業を展開する競合他紙を目の当たりにするたび、 多摩大学の規模の小ささを恨めしく思ったものだ。

海外に出た日本人が人脈を作ろうとする時、大学の同窓会が強力なネットワークになっていると知ったのは、 社会人になって何年も経ってから。ああ有名大学に進学するメリットとはこの事だったのかと、自分の知識と見識の浅さを嘆いても時すでに遅し。多摩大学で過ごした4年間には何の悔いも無かったのに、ここに来てぷすぷすと不満がくすぶっていた。

しかしここはアジア。日系企業の駐在員は5年もすれば交代して行く。官庁でも無い限り、同じ大学のトップが赴任して来る事はまれなのだ。大学ネットワークでとられた顧客は、人事の時期に営業して取り返せば良い。そして新しいトップに売り込みをする際は、商品の良さをきちんと理解してもらう。そうすればトップが代わって「お付き合い」が無くなっても、取引が切れる事は無い。

と、そんな発想に切り替える事が出来たのも、多摩大できちんと「学ぶ」「考える」トレーニングを積んで来たからかもしれない。3年生から所属したゼミでは、毎週1冊の課題図書を読みこなしレポートにしてまとめていた。当時は大変だとしか思えなかったこの課題も、自分でモノを考え行動に起こすというトレーニングだったのかもしれない。

仕事メインの海外生活を送る上で何より大切なのは、未知の出来事に出会った時、対処法を自分でを考えこなす能力だと思っている。「日本じゃありえない」と、日本人ネットワークの中でアジアを否定するのは簡単だが、現地スタッフからは厳しい目で見られているかもしれない。ましてそこから反日感情や嫌悪感が生まれていたとしたら、せっかくの「ネットワーク」も本末転倒ではないか。

4年間の大学生活で得るもの。それは人脈や友人であっても全然かまわないと思う。でも私が多摩大学で得た最大の資産、それは多摩大学が「学び舎」を追求していたからこそ、得られたものだった。決して短くはない4年間で蓄積したこの資産、輝き出すのはまさにこれからだと思っている。


 

第3回「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」
内藤 史子(5期生)
2006年11月


第2回「多摩大学を『特流』にしてみせる!まずトイレから…」 

白倉 正子(4期生)


「私が多摩大学を、『特流』にしてみせます!」
父親にこう言い放ったことがある。多摩大学を受験する数ヶ月前のことだった。
当時はまだ3期生しかいない無名の大学だった。でも、「成績不振者への退学勧告」などの斬新なシステムや、「社会に通用する大学を目指す」という大 学理念に一目惚れした高校3年の私は、時代を切り開く未来を感じ、受験の意思を伝えた。すると「無名の三流大学にか?」と一笑された。田舎暮らしの父だから無理もないが、「実績が無い=三流」と決め付けた一言を、私は聞き流せなかった。
ところで「一流大学」の基準って何だろう?たぶん「伝統がある」「規模が大きい」「優秀な卒業生や研究成果を多く輩出している」等が思い当たる。ならばいわゆる「二流・三流の大学」は、実績があっても与えた社会的インパクトが弱かったから、イメージが固定化されたのであって、出来たばかりの多摩大学はまだ真っ白のはずだ。ならば特別な実績を出してやろうじゃないの!だから「一流でも二流でもない、「特流」を目指す」ととっさに言ってしまった。父は「調子の良い事を言いやがって…」と呆れていた。
そのためには、一体、何をすればいいか?・・・・
そうだ、ユニークで社会に役立つ起業をして「多摩大学卒」の肩書きを前面に出してはどうだろう?
そう決意すると、有名大学へのコンプレックスがすっと消え、下から上に這いあがる面白さを感じ、燃えた。在学中は、既成概念に囚われるとマイナスになるほどの、新しい考えを学べるゼミや講義に積極的に参加し、知的好奇心をぞくぞく刺激させた。
こうして私は、卒業論文で取り上げた「トイレビジネスの可能性」を具現化しようと、トイレにまつわる新事業を構想する企画会社を、卒業直後に起業した。【どうしてトイレに興味をもったのか?については、著書「私の人生は『トイレ』から始まった!」(ポプラ社より発売)を参考にして頂きたい】
ドシロウトの私が、学校も教科書もないトイレの知識を学ぶのは独学以外にない。最初は素手でトイレ掃除をする事から始めた。でも面白かった。誰もやっていない事を開拓する快感がたまらなかったからだ。そんな私を多摩大学の恩師や仲間たちは「お前らしく、やってみろ」と、応援してくれた。多摩大学魂というのは、無謀ともとれるチャレンジを、両手を広げて真正面から受け入れてくれるところではないかと思う。おかげさまで現在は、講演・執筆・イベント企画のほか、マスコミ等でトイレ評論家としてコメントを求められる事も増えた。プロフィール欄に「多摩大学卒」と書かれると、心の中でガッツポーズ!今では父も「無からよく作り上げたもんだ」と近所に自慢しているらしい…。
卒業から10年が経過した。時々ゼミのOB会等に参加すると、何人もの「起業家」と出くわす。歴史の浅い少数精鋭の大学から、一挙に多くの起業家を輩出している大学は、世界でも希少だろう。これこそまさに「特流大学」としての新たな基準を、世に問いていると言えるのではないだろうか?
でも「特流」は一人では作れない。
この「流れ」を、もっと多くの卒業生や在校生らに、加速してもらいたい。

<プロフィール>
白倉 正子(4期生)(新姓:越川)
アントイレプランナー
1973年群馬県生まれ。92年に多摩大学4期生として入学。在学中は望月照彦ゼミ・柳孝一ゼミ・サザンクロス(演劇サークル)に在籍。96年4月、卒業直後に「トイレ企画会社22(現:アントイレプランナー)」を創業。NHK「青春メッセージ98」全国大会出場。日本トイレ協会会員。横浜市の在住。二児の母。著書は「私の人生は『トイレ』から始まった」(ポプラ社)。夢はトイレのデパートを作ること。
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http://entoiletplanner.com