「多摩大伝説を創れ。」小島 幸博(2期生)

 わたしにとって多摩大で学んだことと言えば、だいたい以下3つに無理やり区分できる。

1.野田イズム
2.望月プレゼン
3.白根IT
(敬称略)

 まず「野田イズム」だが、ご存じ初代学長の野田一夫先生から学んだ文字通り“イズム”である。たいがいの大学で「学長」といえば、会話すらかわすことなく、縁遠い存在だと思う。ところが多摩大は野田先生が学生側へどんどん攻め込んできて、繋がりを作っていった。学園祭実行委員会を組閣したかと思えば、新聞部を旗揚げしたり、ランチミーティングと称して赤坂のオフィスへ呼んでいただいたりした。わたしが野田先生から受けた影響は計り知れない。あれほど元気で明るくて、自由に闊歩している“大人”を二十歳そこそこの小僧である自分は見たことがなかった。野田先生と会話していて、もっとも印象に残っている言葉がある。「小島、電車に乗ったら前の席に座っているサラリーマンを見てみろ。その人がキラキラしてかっこいいなぁと思えるなら、そういう人を目指したまえ。反対に、ああ、くたびれていてこういう人にはなりたくないなぁと思うなら、そういう人間にはなるな」と。衝撃であった。ある種の真実性をもった喩えだったからだ。わたしは、それから野田先生の教えの通り、キラキラしてかっこいいなぁ、と思われる中身も実力もある“大人”を目指しているし、何もないところから大学を創り、システムや組織を創っていったあの開拓者精神に充ち溢れた「野田イズム」をいまも携えて生きている。

次に「望月プレゼン」と称したが、これは望月照彦先生の持つゼミで学んだプレゼンテーション能力を意味する。1、2年時に専攻し、もはや名物ゼミとの誉れ高い望月ゼミは、学生に企画会社を作らせて、望月先生がクライアントとなって「お題」を出す。その「お題」に対して、何週間もかけて資料を漁り、頭から湯気が出るほど考え、ゼミの仲間と議論して企画をまとめ発表する、という先見的なシミュレーション方式のゼミであった。この望月ゼミにわれわれはのめり込んだ。もはや大学のひとつの授業ではなく、青春のすべてをそのプレゼン一本一本にかけた。与えられた期間はおよそ四週間。その間に「お題」に対するコンセプトやキャッチコピーをまとめ、企画書に起こした。当時はインターネットもパソコンもなく、ワードプロセッサーと手書きのイラストで挿絵を入れるなど創意と工夫を重ねた。特筆すべきは、そのプレゼンテーションの手法にあった。わたしは、演劇、映像、紙芝居などありとあらゆる手法を取り入れた。望月ゼミは回を追うごとにどんどん濃くなっていったが、その表現の自由さ、懐の深さが、現在のわたしに根深く反映されている。企画書の書き方やプレゼンの方法、そしてビジネスを進めることの基本は、“相手を感動させることだ”という真理を教えてくれた。だから、その頃に学んだあらゆる「プレゼン能力」は、いまもわたしの仕事の一部を成している。

 そして、「白根IT」と呼ばせていただくが、3、4年時に専攻した白根ゼミもわたしに大きな影響を与えている。白根禮吉先生は「情報概論」という授業を担当されており、まだ「IT」という言葉が始まる前に、すでに情報ネットワークの話をしていた。非常に温和な話し方で、野田先生を「動のダンディズム」と称するなら、白根先生は「静のダンディズム」のように映った。お二人は無二の親友でもおられた。白根ゼミではダニエル・ベルやアルビン・トフラーの本を教科書に自分の意見を述べるディベート方式が採用されていた。まだ、携帯電話もGoogleも一般的ではない時代に、「情報テクノロジー(IT)」「文明論」「現代思想」を融合したようなユニークな内容であった。白根ゼミでわたしは卒論を書くのだが「電脳哲学・脱バーチャルリアリティー」という荒唐無稽なものであった。当時、白根先生には理解できない世界観でギャフンと言わせてやろう、と不肖の息子のような情熱で上梓したのだが、なんとこの難解な卒論を白根先生は「素晴らしい。小島君はやさしい人なのだね、作家にでもなったら?」とあっさり読み解いてしまったのである。いやはや、これには舌を巻いた。内容は今でいえば映画「マトリックス」のような哲学的論文なのだが、卒論を書いたのが93年であり、「マトリックス」は99年公開である。この卒論は95年に電気通信普及財団の第4回テレコム社会科学学生賞の最優秀賞を受賞する。白根先生に評価されていなければ、この懸賞論文に応募していなかったかもしれない。いま思えば、わたしの卒論などとっくにお見通しの偉大なる未来派「IT」の父であったのだと思う。

 わたしは、もともと中学・高校の頃からゲーム業界で生きていくと決めていた。だからその夢はかなり近い位置までたどり着けたと思っている。だが、多摩大でのこれらの経験がなければ、普通の人で終わっていたような気もする。いまのわたしが持つ個性をさらに濃くして磨いてくれたのが多摩大のような気がするのだ。ゲームやエンターテイメントの仕事は、人を幸せにする仕事だ。他人を幸せにするためには、自分が幸せでなければできない。自分が不味いと思うラーメンを出すラーメン屋は繁盛しない。やりたくないと思う仕事を続けても、やはり繁盛はしない。ハッピーを生むためにはハッピーが必要なのだ。 多くの人はサラリーマンであり、独立起業して社長になる人は数少ないと予測できる。もし、自分が社会の「歯車」になっている、という恐れがあるなら、それが「巨大な歯車」になるように頑張ればよい。「巨大な歯車」は大きな動力となって何かを動かせる存在になれる、ということだ。仮に独立起業するならば、誰かが敷いたレールの上を走る列車ではなく、自分でレールを敷きながら自由自在に走りまわれる列車でありたいものだ。巨大な歯車はやがて一陣の竜巻を起こすだろうし、自在に走る列車はやがて蒼い稲妻のように天に轟くであろう。

 多摩大は20周年を迎えたという。最新のキャッチコピーは「志塾」だそうだ。わたしから見れば、多摩大は20年前からずっと「私塾」であった。だから、このコピーはある意味、正しい。大学のブランドを、その大学自体が創り上げるということは難しいと思う。大学はサービス業だと言われた時代があった。お客さんは学生であり、お店の評価をするのは学生である、と。大学がブランドを創りにくいとすれば、いったい誰が創るのか?  それは、卒業した人の「志」・・・つまり、「われわれの価値」である。 多摩大は多摩大から巣立った人々が、現代社会において「何を成すか」によって、ブランディングされる。あえて言うならば、大学があなたを幸せにするのではない、あなたがあなたを幸せにするのであり、その幸せの恩恵をあなたの一部を育てた多摩大が受け取るのみである。さまざまな業界・ジャンルで活躍している人物の、そのルーツを紐解いてみたら“たまたま多摩大学であった”ということが重要なのである。

 わたしがここで伝えたいのは「多摩大伝説を創れ。」というメッセージである。

 わたしの活躍は、わたし自身を楽しくし、多摩大を楽しくしてくれる。あなたの活躍は、あなた自身を豊かにし、多摩大を豊かにしてくれる。それこそが、われわれができる“学び舎”に対する最大の恩返しだ、と思う次第である。