オリンピアンが語る「繊細さと挑戦」
—— モーグルを広める夢と多摩大学での学び

2022年の北京オリンピックにフリースタイル女子モーグル日本代表として出場し、今年2025年3月にスイスで開催されたワールドカップでは、銀メダルを獲得した冨高日向子氏。多摩大学在学中から世界を転戦し、競技と学業を両立させてきた彼女に、田坂正樹同窓会会長がお話を伺いました。オリンピックという大舞台での経験、そして多摩大学での学びが今の自分にどう活きているのか。来年2026年冬のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指す、若きアスリートの素顔に迫ります。
※多摩大学職員でもある冨高氏、今回の対談場所は職場でもある多摩キャンパスにて行いました
3歳から始まったモーグルへの道
田坂会長:ワールドカップでの銀メダルすごいなと思ったのですけど、どういう経緯でモーグルを始めることになったのですか?
冨高氏:スキー自体は3歳ぐらいから始めていて、親がスキー好きで「一緒に滑れたらいいな」という思いで連れて行ってもらっていました。小学校1、2年生の時に、たまたま入ったスキースクールでコブを滑った時に「すごく楽しい!」と思って。そこでモーグルという競技があることを知り、やりたいと思ったのです。
田坂会長:東京の小学校から、シーズンになるとスキー場に通って練習していたんですね。
冨高氏:最初は軽い気持ちで始めたので、冬になったらスキーに行って、モーグルの草大会に出る程度でした。でも小学校4、5年生から本格的にやるようになって、白馬村スキークラブに所属してからは、夏も冬も毎週白馬に通うようになりました。
田坂会長:夏もあの水に飛び込むやつ?
冨高氏:そうです。白馬は当時すごく強いチームで、上村愛子さんも先輩にいて。その背中を見て「私もいつかああなりたいな」と思いながら頑張っていました。

高校時代の栄光と挫折
2018年、高校2年生の時に全日本スキー選手権で優勝。しかし、その年は平昌オリンピックの選考に落ちるという悔しい経験もした。
冨高氏:ワールドカップを1年回っていたのですけど、基準をクリアできずにオリンピック選考から落ちてしまって。オリンピックを家で見ながら、モチベーションも少し落ちていました。でも全日本は次の4年に向けて大事な試合で、引退する先輩もたくさんいたので、その先輩たちに恥じない滑りをしようという思いで臨みました。
田坂会長:悔しさをバネにしたのですね。
冨高氏:はい。その経験が、次のオリンピックへの原動力になりました。
多摩大学を選んだ理由
田坂会長:モーグルをやりながら多摩大学に入学したきっかけは?
冨高氏:最初は東京を離れることも考えていましたし、そのまま就職している先輩もいました。でも私自身、モーグルを辞めた後に「モーグルという競技を広めたい」という思いがすごくあって。高校の時に多摩大学を教えてもらい、経営や自分から発信する術を学べると聞いて、入りたいなと思いました。
コロナ禍での両立生活
大学生活とトップアスリートとしての活動の両立は、想像以上に過酷なものだった。
田坂会長:授業との両立はどうしていたのですか?
冨高氏:前期は基本的に来られる時は大学に通って、合宿がある時は別の課題をいただいたりしていました。後期はほとんど遠征で日本にいないことが多くて。でもちょうどコロナ禍でオンライン授業になったのは、ある意味運が良かったです。
田坂会長:コロナ禍で海外遠征をしていたのですか?
冨高氏:はい。検査体制も厳しくて、毎日朝晩検査をして。北京オリンピックの時は特に厳しくて、絶対にかかれないという重圧もありました。10月のスイスから2月のオリンピックまで、日本に帰ったのは年末の3日間だけ。それもホテル隔離でした。

田坂会長:ちょっとホームシックになりますよね。
冨高氏:厳しかったです。日本食も食べたいし、家に帰って荷物も整理したいし(笑)。
多摩大学での学びが活きた瞬間
田坂会長:大学で学んだことで、競技生活に活きていることはありますか?
冨高氏:私、元々人前に立って喋ることがすごく苦手で。1対1なら話せるのですけど、大勢の前で話すのが本当に苦手でした。でも多摩大学ではプレゼンの機会が多くて、自分でパワーポイントを作って発表することも多かったのです。おかげで、オリンピック後の講演会では震えずに話せるようになりました。大学でやっていたから、だいぶできるようになったと思います。
田坂会長:中村その子先生のゼミでマーケティングを学んでいたのですね。
冨高氏:はい。スポンサーを見つけたりする際の自己マーケティングについても教えていただきました。今はSNSもありますし、自分でちゃんと発信していかないといけないので、とても役立っています。
限られた大学生活の楽しみ
田坂会長:同級生との関係はどうでしたか?
冨高氏:最初は一目置かれるというか、どう接していいか分からない感じもあったと思うんですけど、普通に「頑張ってきてね」と応援してくれて。学校が終わったら一緒に遊んだりもしていました。
オンラインより対面授業の時の方が楽しかったです。空きコマに友達と話すとか、早めに来て一緒に過ごす時間が本当に楽しくて。限られた時間だったからこそ、その楽しみがあったから4年間通えたし、モーグルも頑張れたと思います。

オリンピックという特別な舞台
田坂会長:北京が初めてのオリンピックだったのですよね。他の大会と雰囲気は違いましたか?
冨高氏:全く別物です!みんなそう言っていたのですけど「言ってもワールドカップと同じでしょ」と思っていました。でも会場の空気感が全然違って、景色も違って見えるというか。みんな緊張が伝わってくるのです。
プレッシャーもありました。4年に一度しかなくて、人数も限られている中で、失敗もできない。出るからには良い成績を残したいという思いもあって、いろんなプレッシャーがありました。

競技を支える環境と課題
現在、冨高さんは日本スキー連盟(SAJ)のSランク選手として、遠征費用の全額負担を受けている。しかし、この環境は簡単に手に入るものではない。
冨高氏:Sランクは日本のモーグルで3人しかいません。年間ランキング6位以内か、世界選手権のメダルのどちらかを取らないとSランクになれないのです。
田坂会長:ランクが下がると半額負担になるのですか?
冨高氏:そうなのです。だから頑張らないと。試合に出たくてもお金が出せないから出られないという選手もいます。
モーグル自体、知名度はあると思うのですけど競技人口が多くないので、スポンサーを見つけるのも大変です。高校や大学のタイミングで辞める選手が多いのも、そういう理由があります。

繊細さと大胆さの共存
田坂会長:自分を一言で表現するとどんな人ですか?
冨高氏:すごく小さいことでも気にしすぎちゃう、繊細なタイプです。試合の時はルーティンを決めていて、着る服も全部決まっているのです。それを一つでも忘れると「やばい、今日ダメかもしれない」って思っちゃう。でも実際滑ってみると、全然関係なかったりするのですけど(笑)。
田坂会長:繊細さと大胆さを持ち合わせているのですね。緊張しやすいのに結果を出せるのはすごい。
冨高氏:全試合ド緊張です!でも、その繊細さがあるから細かいところまで気を配れるのかもしれません。
ミラノ・コルティナへの決意
田坂会長:今後の目標を教えてください。
冨高氏:一番は来年のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得です。前回は初めてのオリンピックだったので「まずは楽しもう」という気持ちもありましたが、次は違います。北京での経験を活かして、必ずメダルを取りたいです。
田坂会長:俺も応援に行こうかな。ミラノなら観光もできるし(笑)。
冨高氏:ぜひ来てください!詳しい情報は後でお伝えします。
後輩たちへのメッセージ
田坂会長:最後に、在学生やこれから多摩大学に入学する学生にメッセージをお願いします。
冨高氏:私は高校まで、モーグルができる環境で「いかに休めるか」で選んでいました。でも多摩大学に入って、ゼミや授業を通していろんなカテゴリーを学べました。
今やりたいことがないとか、将来のことが決まっていなくても、多摩大学に入ってからいろんな機会があると思います。いろいろ試して、やりたいことを見つけてほしいなと思います。

【冨高日向子氏 プロフィール】
経営情報学部31期生(2019年入学)。中村その子ゼミ所属。3歳からスキーを始め、小学生でモーグル競技を開始。白馬村スキークラブを経て、2018年全日本スキー選手権優勝。2022年北京冬季オリンピック出場、2025年3月スイス世界選手権で銀メダル獲得。在学中は競技と学業を両立し、マーケティングやプレゼンテーション能力を習得。現在は日本スキー連盟強化指定選手Sランクとして世界を転戦しながら、2026年ミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指している。
【編集後記】 インタビューを通じて印象的だったのは、冨高さんの「繊細さ」と「挑戦心」のバランスだ。試合前のルーティンを一つ忘れただけで不安になるという繊細さを持ちながら、世界の舞台で戦い続ける強さ。コロナ禍という困難な状況でも、オンライン授業を活用して学業と競技を両立させた柔軟性。そして何より、競技を通じて「モーグルを広めたい」という使命感を持ち続ける姿勢に、多摩大学が育む真のイノベーター精神を見た。来年のミラノ・コルティナオリンピックでの活躍を、同窓生一同、心から応援している。
(インタビュー実施日:2025年8月 編集:経営情報学部11期・埜口輝之助(同窓会理事)