同窓生連載インタビュー vol.7

家業を継ぐ人が一番偉い
〜簿記と営業で培った力を胸に、下町の老舗を守る女将〜

東京都墨田区向島。東京スカイツリーを間近に望む下町に、90年余り続く酒場「上総屋」がある。地域の宴席や会食を支えてきたお店の三代目女将は、棟方美栄(旧姓・長嶋)さん。

付属の商業高校で簿記に魅了され、多摩大学へ進学。卒業後はセールプロモーション会社の営業職として新規開拓に奔走し、年間1億円を超える売上を築いた。

結婚、出産を経て、母親の逝去をきっかけに家業へ。幼い娘を育てながら店に立ち、人の雇い方、接客、調理、店の回し方を現場で身につけてきた。女将歴は今年で20年になる。現在はお店を切り盛りする傍ら、週に一度、会計事務所でも働く。高校時代に思い描いた税理士への道を、50歳を過ぎて別の形でたぐり寄せた。

向島から半径1キロほどの範囲で暮らしながら、店では数えきれないお客さんと出会う。家業、営業、子育て、そして学び直し。棟方さんの歩みには、人とのつながりを大切に、自分自身の人生を何度でも切り拓いていく力強さがある。

8月のある日の夕刻、同窓会の鍋田修彦副会長が、下町の老舗を守る女将に、これまでの歩みと仕事への思いを訊いた。


商売と暮らしが一つだった、下町での幼少期

鍋田副会長:
居酒屋探訪家の吉田類さんの「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBSで放送)や、「出没!アド街ック天国」(テレビ東京で放送)でお店の存在を知っていましたが、まさか多摩大の卒業生が経営しているとは知りませんでした……。棟方さんは、上総屋の三代目に当たるのですね。

棟方さん:
はい。お店を始めたのは祖父で、私は三代目です。上総屋はここ向島で90年ほど続いていて、私自身もこの家で生まれました。昔はこの敷地に4世帯が暮らしていました。祖父母、父と母、住み込みの従業員さんたちがいて、商売と家族の暮らしが完全に一緒になっていました。我が家の周りも中小企業やお店屋さんが多くて、幼少からその環境に馴染んだのでしょうね。

鍋田副会長:
幼い頃から商売が日常の中にあったのですね。

棟方さん:
そうなんです。物を仕入れて、お客様に提供し、お金をいただく。そうした売り買いが日常茶飯事でした。だから、私にとっては、国語や英語を勉強するよりも、商売の仕組みや簿記の方が、はるかに分かりやすかったですね。

鍋田副会長:
最初からいつかは家業を継ごうと思っていたのですか?

棟方さん:
どうも下町には、独特の価値観があると思うのです。どこの大学を出たとか、どこの会社に勤めたとか、そういうこと以上に、魚屋でも八百屋でも、実家の商売を継いだ人が一番偉いという感覚があるのです。なので、「家業を継ぐ」ということは、ずっと頭の中にありました。私たちにとって家業は、掃除や買い物と同じくらい身近なものなのです。いろいろ経緯はありましたが、今は弟が下支えをし、私が女将として表に立つ形に落ち着いています。

鍋田副会長:
アメリカでは、起業する人が一番偉いみたいな価値観がありますよね。一方、下町では後を継ぐ人が一番偉い。考えてみると、家業を継ぐというのは、商売だけではなく、先代が築きあげてきたお客様や取引先、地域との関係まで受け継ぐことでもありますよね。

棟方さん:
そうだと思います。お店だけを残せばいいわけではないし。昔からのお客様や地域とのつながりがあって初めて商売が続いていく。そういうものも含めて次の世代につないでいくのが、家業を継ぐということなのかなと思います。

鍋田副会長:
だからこそ、下町では、「後を継ぐ人が一番偉い」という価値観が生まれたのかもしれませんね。


商業高校で出会った簿記の面白さ

鍋田副会長:
出身高校は渋女(渋谷女子高校)の商業科。今の渋谷教育学園渋谷中学高等学校です。

棟方さん:
当時制服がものすごくかわいかったことと、通いやすかったことが進学の理由です(笑)
商業科では、珠算、ワープロ、簿記など、資格取得の日々でした。周囲には、そろばんの全国大会に出るような生徒もいて、かなりレベルの高い環境でした。私は特に簿記が好きで、高校2年生の夏に日商簿記2級を取得しました。

鍋田副会長:
高校2年生で簿記2級はかなり早いですね。しかも全商簿記ではなくて、日商簿記。

棟方さん:
簿記2級を取った後、次に何を目指すか考えました。簿記1級に進む道もありましたが、その先を考えると税理士という仕事に行き着いたんです。当時は大学で経済学に関する科目の単位を取得することが、税理士試験の受験資格を得る方法の一つになっていました。

(※現在は受験資格の要件が緩和されており、大学院修了により一定の要件のもとで一部科目が免除される制度もある)

それなら大学に進学しようと考え、商業科から進学クラスに移りました。普通科の生徒に追いつくため、半年間、必死に塾へ通いました。

鍋田副会長:
多摩大学の法人である田村学園の高校は、目黒女子商業高校(現・多摩大目黒高校)もそうですが、商業科が起点ですよね。高校時代には、田村哲夫校長(現・渋谷教育学園理事長・学園長)との出会いもあったそうですね。

棟方さん:
田村先生には本当にお世話になりました。商業科の生徒にも大学進学の道を開いてくださった方です。かわいがっていただき、今でも心から尊敬しています。田村先生とのご縁がなければ、多摩大学へ進学する道もなかったかもしれません。


「多摩大学が面白すぎた」学生時代

鍋田副会長:
多摩大学には、内部進学で入学されたのですね。

棟方さん:
そうです。晴れて多摩大生になりました。本来は税理士を目指すための進学だったのですが、もうね、多摩大学での生活が面白すぎて(笑)。1、2年次は大学の授業を受けながら、田坂正樹先輩(多摩大学同窓会会長)が率いるM’sサークルで活動したり、他大学のインカレサークルに参加したり、地元の活動にも関わったりしていました。遊びすぎて過労死するのではないかというくらいキャンパスライフは充実していましたね(笑)

鍋田副会長:
3年次には、(※)尾高敏樹ゼミを選ばれたのですね。
※尾高敏樹教授は、株式会社オカムラ取締役を経て1989年多摩大学開学時に教授で就任。オフィス管理論などを担当。故人。

棟方さん:
圧倒的に人間的な魅力があって、キャラクターの立っていた尾高先生の誘惑に負けました(笑)尾高先生と、最高の仲間に囲まれて、とても楽しいゼミ生活を送ることができました。もちろん、財務諸表論などの会計科目は大好きでした。簿記や財務会計は、今でも私の原点です。


就職氷河期に130社へ応募も苦戦

鍋田副会長:
大学卒業後は、当時年商100億円近くの内海産業株式会社に入社されました。まさしく就職氷河期でしたね。

棟方さん:
女性総合職の採用が非常に厳しい時代でした。私は約130社に応募しました。今のようなインターネットでのエントリーなどはなくて、資料請求のはがきをひたすら送りましたが、返事が来た会社は片手で数えられるほどでした。当時は女子学生には就職情報誌さえ届かなかったので、地元の男子学生から雑誌を借りて応募していました。

鍋田副会長:
今では考えられない……。それでも諦めずに130社。

棟方さん:
なかなか内定をもらえなかったので、就職活動の攻略本を読みました。そこには、「自分だけの特技をアピールしなさい」と書いてあって。

そこで、最終面接で社長に、「私は接客の極意を知っています。私にすべて任せてください」と言いました。当時は赤坂プリンスホテルなどで接客のアルバイトをしていましたし、接客には自信があったんです。すると社長から、「そこまで接客を知っているなら、自分の家を継げばいいんじゃないの?」と言われて。私も思わず、「そうですよねー」と答えてしまって(笑)。そのやり取りが、結果的に採用のきっかけになりました。

鍋田副会長:
面白いですね。用意した模範回答ではなく、ご自身が実際にやってきたことを、自分の言葉で自信を持って伝えた。それが社長の印象に残ったのでしょうね。考えてみれば、接客も営業も、結局は相手とのコミュニケーションが基本ですよね。

棟方さん:
そうですね。結局、相手が何を求めているのかを考えて、それにどう応えるかということだと思います。


大きな案件よりも100万円の仕事を10件取る

鍋田副会長:
入社後は、全国でも数少ない女性営業として働かれたとのことでしたが。

棟方さん:
営業部に配属され、外回り、新規開拓、既存のお客様への企画提案、販促品の製作などに取り組みました。当時は女性営業が全国で5人ほどしかおらず、ほとんど男性の中で働いていました。

鍋田副会長:
年間売上目標は1億円を超えていたとか。

棟方さん:
販促品は、1個300円、400円の商品も多いので、1億円を売るには相当な数が必要です。大きな案件を一つ受注する方法もありますが、大型案件は、提案から製作、納品まで時間も人手もかかります。私は仕事をしていく中で、100万円ほどの発注なら、比較的早く意思決定してもらえることに気づきました。同じ1,000万円を売るなら、1,000万円の案件を一つ取るより、100万円の案件を10件取ればいい。そう考えて、小さな案件を数多く積み上げました。

鍋田副会長:
なるほど。売上目標を分解し、達成しやすい単位に落とし込んだのですね。

棟方さん:
「これを手掛けた」という代表作はありませんけれど、数字を分析して、確実に積み上げることは得意だったかもしれませんね。ひたすら新規開拓を続け、最終的には営業成績で社内トップになりました。


母親の死をきっかけに家業を継ぐことに

鍋田副会長:
その後、結婚と出産を経て、上総屋に入ることになります。

棟方さん:
結婚後も働いていましたが、営業職として数字を維持しながら家庭生活を続けることに難しさを感じ、退職しました。別の会社でも同じ販促業界の仕事をしましたが、その後は妊活に専念するため会社を辞め、やがて娘を授かりました。

そして娘が幼稚園へ入る頃、母が亡くなりました。父から「店を手伝ってほしい」と言われて、上総屋に入りました。

鍋田副会長:
子育てが始まったばかりの時期にお母様を亡くされ、今度は家業を支える側になった。生活が一気に変わったと思いますが、迷いはありませんでしたか?

棟方さん:
大変だとは思いましたが、母がいない以上、やるしかありませんでした。家業のことはずっと頭にありましたし、父だけでは接客まで手が回りません。私はもともと接客が得意だったので、役割としては自然だったのだと思います。

ただ、仕事と子育ての両立は本当に大変でしたね。昼の営業が1時半に終わると、2時には幼稚園へ娘を迎えに行く。そこから公園で遊ばせて、夕方になるとまた店へ戻る。そんな毎日でした。

鍋田副会長:
お店の仕事には終わりがあっても、子育てには終業時間がありませんものね。

棟方さん:
そうなんです。娘には、店の片隅にある小さなスペースで待ってもらうこともありました。仕事もしなければならないし、子どもとの時間も大切にしたい。でも、どちらかだけに集中するわけにはいかない。娘にも我慢させてしまったなと思います。

鍋田副会長:
ご自身の仕事や将来について、ゆっくり考える時間もなかなか取れなかったのではないですか?

棟方さん:
なかったですね。最初の10年くらいは、本当に仕事と子育てだけでした。自分のキャリアをどうしようとか、これから何をやりたいとか、そんなことを考える余裕はほとんどありませんでした。とにかくその日その日、目の前にあることを一つずつやっていく。それで精一杯でした。


女将として、現場で身につけた20年

鍋田副会長:
女将になってからは、接客だけでなく、調理や店の運営も学んだのですね。

棟方さん:
人の雇い方、お客様との接し方、店の回し方、調理の仕方など、すべて現場で身につけました。調理師免許も取得しました。父は職人ですから、何かを体系立てて教えるタイプではありませんし、ただただ見て覚えるしかありませんでした。父とは今でもよく喧嘩をしますけど(笑)、50年間経営を続けてきた父には、まだまだ及ばないです。

鍋田副会長:
お父様から学んだことで、経営という意味でも最も大きかったことは何でしょう?

棟方さん:
ズバリ、「分相応」ですね。

稼ぐ力はもちろん大切ですが、それ以上に「使わない力」が大切だと学びました。会社員は会社組織に守られている部分がありますけれど、家業や小さな会社では、誰かが守ってくれるわけではありません。収入も環境も絶えず変化します。

だから、自分たちがどこまでなら無理なく続けられるのかを知っておくことが大切だと思っています。社員時代と同じような生活を続けようとすると、経営とのバランスが崩れてしまう。自分の暮らしも、商売に合わせて身の丈に整えていく必要があります。

鍋田副会長:
なるほど。大きくすることだけを考えるのではなく、長く続けられるサイズを知る。ある意味、ダウンサイジングですね。最小限の支出で、幸せを最大化するというか。

棟方さん:
まさにそうです。そりゃ、私だって贅沢もしたいですし、休みも欲しい。会社員時代のように暮らしたいという葛藤はありました。でも、家業を続けるためには、分相応であることが何より大切です。無理に背伸びをせず、何かあっても耐えられる状態をつくっておく。リーマンショックやコロナ禍も乗り越えてこられたのは、父が長年蓄えてきたものと、そうした無理をしない経営があったからだと思います。

鍋田副会長:
成長することだけが経営ではなく、「続けられる経営」をつくることも大切なのですね。

棟方さん:
そうですね。長く商売を続けるという意味では、本当に大事なことだと思います。


向島にいながら、世界中の人と出会える

鍋田副会長:
20年間女将を続けてきた中で、この仕事をやっていてよかったと思うのは、どんな時ですか?

棟方さん:
やっぱり、お客様の笑顔ですね。これがなければ続けられません。私は普段、ほとんど向島から半径1キロくらいの範囲で生活しているわけです。でも、お店にいると、著名企業の経営者の方から、地元の常連さん、最近だと20代の若い方や海外からのお客様まで、本当にいろいろな方が来てくださる。年間で約3,000人の方と出会います。

鍋田副会長:
自分は向島にいるけれど、向こうからいろいろな世界の人がやって来るわけですね。

棟方さん:
それがすごく面白いわけですよ。法人のお客様にも長年支えていただいていて、若い頃から来てくださっていた方が、年月を重ねて会社の中でどんどん偉くなっていく。その姿を見届けられるのも、この仕事ならではの楽しさです。地元のお客様とのつながりもありますし、初めて来てくださった方がまた誰かを連れてきてくださることもある。そうやって、人と人とのつながりが少しずつ広がっていくんです。

鍋田副会長:
単に食事をする、呑む場所というだけでなく、人が集まり、関係がつながっていく場所でもあるんですね。

棟方さん:
そうですね。お客様の笑顔に立ち会えて、そこからまた新しいご縁が生まれていく。それが、私が上総屋で仕事を続けている一番の魅力だと思います。


コロナをきっかけに会計事務所との二足の草鞋

鍋田副会長:
驚いたのですが、現在は上総屋の女将を務めながら、週に一度、会計事務所でも働いていらっしゃるとか。

棟方さん:
きっかけはコロナ禍です。お店は営業を制限され、お酒抜きのランチを続けていました。時間ができたので、以前から知っていた会計事務所の先生に、「暇だから働かせてください」とお願いしたのです。先生は、私が会社員だった頃の先輩で、偶然、同じ地元の方でもありました。「いいよ」と快く受け入れてくださり、そこから始まりました。

鍋田副会長:
高校時代に目指していた税理士の仕事に、違う形で戻ってきたわけですね。

棟方さん:
そうです。税理士になることはできませんでしたが、50歳を前にして、会計の現場で働く機会をいただきました。業務を通じて学ぶことは、上総屋の経営にもとても役立っています。まさに「生きた会計」ですね。以前から、経営や事業承継が気になり、セミナーや相談窓口にも足を運びましたが、自分が本当に知りたいことにはなかなかたどり着けませんでした。会計事務所での経験を通じて、自分が不安に感じていたことや、上総屋の経理についても、見るべきポイントが少しずつわかるようになりました。

鍋田副会長:
女将と会計事務所は、一見するとまったく違う仕事ですよね?

棟方さん:
両極端だからこそいいんじゃないかしら。女将の仕事では、人の気持ちを考え、場の空気を読みます。会計事務所では、数字やFACTを冷静に見ます。右脳と左脳をバランスよく使っている感覚があり、健康的ですし、商売にも非常に役立っていますね。50歳を過ぎて、やり残していたことにもう一度取り組めている。とても幸せなことだと思います!


家族全員が、同じ収入源で生きるということ

鍋田副会長:
上総屋は、お父様が調理を担い、弟さんも仕入れを担当されている。まさに家族経営ですが、家族だからこその難しさもありそうですね。

棟方さん:
あるある(笑)。だって、家族みんなが同じ一つの収入源で生活しているわけで、「誰か一人くらい外に出て、別の収入を得てくれないかな」と思うこともありますもん(笑)

鍋田副会長:
会社でいえば、家族全員が同じ事業に生活を預けているわけですものね。売上が良い時も悪い時も、全員に影響する。

棟方さん:
本当に大変です。でも今は、父が調理を担い、弟が仕入れを支え、私が接客と全体の運営を見る。それぞれの得意なところを担当してやっています。

鍋田副会長:
お父様は職人として料理をつくり、棟方さんは会社員時代から得意だった接客や営業の経験を生かす。弟さんも仕入れを支える。いい分業になっていますね。

棟方さん:
そうですね。喧嘩もしますけど(笑)、家族でワンチームです。

鍋田副会長:
一方で、棟方さんには簿記を学んできたバックグラウンドがあるし、今は会計事務所でも仕事をされている。家族経営だからこそ、数字を見る重要性をより感じるのではないですか?

棟方さん:
それは本当に感じますね。会計は会社の根幹ですから。料理がおいしい、接客がいいというのはもちろん大切ですけれど、それだけでは商売を続けられません。売上や仕入れ、経費がどうなっているのか、きちんと数字を見ることは絶対に必要です。

鍋田副会長:
続けるために数字にちゃんと向き合うということですね。

棟方さん:
そうです。多摩大学の卒業生にも飲食店を経営されている方がいらっしゃると思いますが、料理や接客と同じくらい、数字はシビアに見てほしいですね。それが店を長く続けることにつながると思います。


人生は、何歳からでも挑戦できる!

鍋田副会長:
ここまでお話を伺うと、棟方さん自身も、ずっと一直線にキャリアを築いてきたわけではないですよね。税理士を目指していた時期があり、営業の仕事をやり、結婚や出産があって、家業に入り、そして50歳を過ぎてから再び会計の仕事に関わるようになった。これから挑戦したいことはありますか?

棟方さん:
私が目標にしているのは、日本人初の国連難民高等弁務官を務められた(※)緒方貞子さんです。
※緒方貞子さんは日本の国際学者。上智大学教授などを経て、1990年に62歳で日本人の国連難民高等弁務官に就任。紛争地や難民キャンプに自ら赴き、支援を重ねた。世界的な人道支援のリーダー。

緒方さんは年齢を重ねても新しい役割を引き受け、世界を舞台に挑戦し続けた方です。彼女の歩みを見ていたら、私も年齢を理由に「もう遅い」とか思いたくなくなりました。

女性の人生には、出産、子育て、介護など、自分のことだけに時間を使えない時期があります。男性と女性では、人生の時間の流れ方が違う部分もあると思います。だから、今まさに子育てや介護で奮闘している多摩大学の女性卒業生には、「焦らなくてもいいよ」と伝えたいですね。

鍋田副会長:
どうしても周りを見ると、同世代が活躍していたり、新しいことを始めていたりして、「自分だけ止まっているのでは」と焦りを感じてしまうこともありますよね。

棟方さん:
そう。でも、結局は自分だなと。周りと比べて焦って、自分ですべてを抱え込んで疲弊して、人生がおかしくなってしまったら悲しいじゃないですか。その時にできることをやればいいと思います。私だって、子育てと店の仕事で精いっぱいだった時期には、会計の仕事にもう一度関わるなんて考える余裕なんかなかった。

でも、50歳を過ぎてから、その機会が巡ってきた。高校時代から好きだった会計に、思ってもいなかった形でまた戻ることができたわけだし。

鍋田副会長:
40代、50代になると、「もう新しいことを始める年齢ではない」と思ってしまう人もいるかもしれませんが、棟方さんのお話を聞いていると、むしろ、それまでやってきたことが後になってつながることもあるのかもしれないですね。人生面白いなあ。

棟方さん:
本当にそうだと思います。若い頃に思い描いていた通りにならなくても、そこで終わりではありません。違う形で戻ってくることもある。何歳になっても、自分の人生に残っている宿題に挑戦できると思っています。

鍋田副会長:
「今まで何をしてきたんだろう」ではなく、「これまでの経験を、これからどう使おうか」。40代、50代の卒業生にとっても、そんな感じで考えるきっかけになりそうですね。

棟方さん:
そうですね。私もまだまだこれからです。90歳くらいになったら人生振り返りたい(笑)


多摩大学で得たもの

鍋田副会長:
最後に、多摩大学で得た一番大きなものは何でしょう?

棟方さん:
やっぱり、「人と人とのつながり」ですね。
大学時代の仲間や先生方とのご縁は、卒業してからも続いています。多摩大学には人との距離が近くて、一人ひとりの個性を受け入れてくれる雰囲気がありました。

学生時代にたくさんの人と出会って、遊んで、学んで、いろいろな価値観に触れたことは、今の接客や商売にもつながっていると思います。だからこそ、多摩大学同窓会も、時代が変わっても、卒業生同士がまたつながったり、新しいご縁やヒントが生まれたりする場所であり続けてほしいですね。

【棟方美栄さんプロフィール】
多摩大学経営情報学部4期生。
渋谷女子高校(現・渋谷教育学園渋谷高校)商業科を経て、1992年に多摩大学入学。
卒業後は、セールプロモーションを手掛ける内海産業株式会社に入社し、女性営業職として新規開拓や企画提案に従事。年間売上1億円を超える実績を上げる。結婚、出産を経て、母親の逝去をきっかけに、東京都墨田区向島の家業「上総屋」へ。現在は三代目女将として店を切り盛りする傍ら、会計事務所でも勤務している。女将歴20年。調理師免許保有。

【編集後記】
昨年2025年秋のミートアップ(大同窓会)で初めてお会いし、さらに今年6月に上総屋で開いた卒業生有志の暑気払いの席でもご一緒させていただき、棟方さんの飛び抜けた明るさ、人を自然に巻き込む力に魅力を感じた。

今回あらためて話を訊いて、その背景には、下町で育った商売人としての感覚と、営業、子育て、家業承継を一つひとつ引き受けてきた20年の積み重ねがあることを知った。何より心に残ったのは、「家業を継ぐ人が一番偉い」という言葉。華やかな肩書ではなく、受け継いだ場所を守り、家族や従業員、お客様の暮らしを支え続けることへの誇りが伝わってきた。

棟方さんは家業を守るだけではない。50歳を過ぎて会計の仕事に再び向き合い、自分の中に残っていた宿題にも挑戦している。

人生には思うように動けない時期もある。それでも、学び直すことや、新しい一歩を踏み出すことに時期はない。妊活や子育てをしながらも、懸命にキャリアを築く女性卒業生はもちろん、ミドルエイジの卒業生に対しても力強いメッセージをいただいた気がする。

取材後にいただいたアジフライは絶品。日本酒もいい銘柄がたくさん揃っている。ぜひ皆さんもお楽しみあれ!

上総屋のサイト:https://kazusaya.foodre.jp/

【卒業生向けに特典があります】
食べログからご予約の上、コメント欄に「多摩っ子いいね👍」とご記入いただくと、ご来店時に特典をご用意いたします。


インタビュー実施日:2026年8月
編集:経営情報学部7期生・鍋田修彦(同窓会副会長)

2026年度役員体制

本日2026年5月23日(土)15時より開催の「一般社団法人多摩大学同窓会第5回定時総会」において、全議案の承認とともに、以下、役員執行体制が決定いたしましたので、ご報告いたします。

▪︎新役員(常任理事会)
会長:田坂 正樹(経営情報学部3期生)
副会長:鍋田 修彦(経営情報学部7期生)
常務理事:新西 誠人(経営情報学部6期生)
監事:大嶋 直樹(経営情報学部2期生)

▪︎退任役員
常務理事:黒瀬 洋(経営情報学部7期生)
理事:埜口 輝之助(経営情報学部11期生)
監事:片山 洋志(経営情報学部6期生)

理事の任期は2年、監事の任期は4年です。

退任役員の皆様におかれまして、同窓会隆盛のために尽力いただきました。深く感謝申し上げます。

ガバナンスに基づく健全運営および組織発展のため、経営情報学部、グローバルスタディーズ学部の卒業生の皆様のご協力、ご尽力を心からお願い申し上げます。

同窓生連載インタビュー vol.6

子どもたちにもっと深く関わりたい
〜企業人事、教育NPO、そして子ども食堂へ〜

国際物流会社の人事部、NPO法人を経て、現在は都内で子ども食堂を自ら運営する川野礼(旧姓は鮎川)さん。子ども食堂とは、地域の大人たちが主体となって、無料または低価格で子どもたちに温かい食事と居場所を提供する民間の取り組みだ。経済的に困難な家庭の子どもだけでなく、孤食や孤立を抱えるすべての子どもたちに開かれた「いてもいい場所」として、全国に一万ケ所以上が広がっている。グローバルスタディーズ学部の1期生でもある川野さんに、これまでのキャリアとこれからについて語っていただいた。


第一志望に落ちて、新設学部の1期生になった

田坂会長:まず、どういう経緯で多摩大に入学されたのか教えていただけますか? グローバルスタディーズ学部の1期生ということで、なぜ新しい学部をなぜ選んだのかなと。

川野さん:  入学したのが2007年(平成19年)なのですが、高校の頃から英語が好きで、「英語しか勉強したくない」ぐらいの勢いがあって。第一志望の大学が落ちてしまった時は第二志望を考えていなくて、いざ、どうしようと思った時に、ある大学に徹底した英語教育の新設学部ができるよ、しかも全て英語で勉強できるよっていう話を聞いて。目指していたものに似てるなと思って受験しました。
結果、受かったのは良かったのですが、その学部は藤沢市にあるのに、私は経営情報学部のある多摩ニュータウンで生まれ育ち、毎日小田急線で湘南台まで通っていました(笑)

田坂会長:それだけの理由で受けたんですか(笑)

川野さん:そうです(笑)。そうしたら、そこは一学年80人の小さな学部だったっていう感じです。


1期生の熱量、専攻は会計学

田坂会長: 入学して印象に残っているエピソードや、今の自分につながっているようなことはありますか?

川野さん:1期生だったこともあって、80人皆が結構面白くて。やっぱり立ち上げにいる人たちって、どこか似てるというか、ちょっと熱いものがある。変わった人が多いのですけど、そういう学友がいっぱいいた感じですかね。先生たちも個性的でそれも良かったです。一番お世話になったのは会計学のエリックホノベ(Erik Honobe)先生ですね。日本人より、日本語のことお詳しかったですよ(笑)。

田坂会長: ホノベ先生。日本人なんですか?

川野さん:いえいえ、外国の方です。まだ教授でいらっしゃいます。私は英語以外にも数字が好きだったので、それで会計の分野に進みました。

田坂会長:外国人の先生が会計学を教えていらっしゃる。それは驚いた(笑)ちなみに、学生時代は勉強以外にどんなことをされていたのですか? サークルとかアルバイトとか。

川野さん: サークルは一期生だから何もなくて。前から軽音をやってて、バンドをやりたかったのですね。アニソンバンドで。ただ、SGS(グローバルスタディーズ学部)ではなかなかできなくて、学外でバンドを組みました。バイトは聖蹟桜ヶ丘のエスニック系の雑貨屋さんで。すごく好きだったので、お香とか並べてましたね。(笑)あと奨学金も借りていて……。来週ついに返し終わるんです!(皆で拍手)

田坂会長:頑張ったんだなあ……。何年奨学金借りていらしたのですか?

川野さん:2011年からなので、15年ですね。やっとです(笑)。


就職氷河期。100社受けて1社。人事部で気づいたこと

田坂会長:充実した学生生活を送られたと思いますが、就職活動はどうでしたか?

川野さん:結構やりました。当時はリーマンショック、就職氷河期、さらには東日本大震災もあっていろいろ厳しかったです……。卒業式は震災直後だったのですが、簡易的な授与式だけでしたね。ちなみに就活はエントリーシートを100社ぐらい出して、実際面接に進めたのが30社くらい、決まったのは1社っていう感じでした。

田坂会長:どのような会社を中心に受けたのですか?

川野さん:英語で会計学を学んでいたので、商社とか物流とかの業界を考えていて、それで決まったのが国際物流の会社で、狙い通りの世界に入れたのですが、研修後の配属は人事部の採用担当でした。

田坂会長:新卒でいきなり人事って、それは優秀だってことじゃないですか。

川野さん: 当時はそんなこと知らなくて(笑)。みんな「1年目で人事はなかなかないよ」って慰めてくれるんですけど、それがいいのか悪いのかもわからなくて。国際貿易の会社なのに、仕事的に英語も全然使わないですし。

田坂会長: そこではどのくらい働いたんですか?

川野さん: 3年半です。人事の仕事をやってみたらこれが楽しくて、年間何百人もの学生に会って。その子が入社してくれて育っていってくれて、後輩もできてすごい楽しいとは感じていたんですけど……。ただ、選考で落としてしまった中に、どこにも引っかからずに苦労するだろうなっていうコミュニケーションの癖がすごく強い学生がいて、そこがとても気になってしまって。

田坂会長: どんなふうに気になったんですか?

川野さん:この子はどこに行くんだろう、どう生きていくのだろうって。幼少期のうちにいろんな人とコミュニケーションを取れていれば、選択肢が広がる人生になったんじゃないかって、勝手に仮説を立てていくうちに、人の児童期に携わる仕事をしたいなと思い始めて、退職しました。


NPOへ転職。「もっと現場にいさせてほしい」と直談判

田坂会長: 次はどちらへ?

川野さん: 10代向けの教育・居場所・伴走支援の社会インフラを提供しているNPO法人です。ただ最初はまた同じで、学校の先生にプログラムを売るっていう営業事務みたいなことを1年半ほどやっていました。やはりもっと子どもたちと近いところに移りたくて、上の人に直談判して。

田坂会長:直談判したんですか(笑)。

川野さん:そうしたら、ちょうどそのタイミングで足立区の委託が決まったんです。困窮世帯向けの学習支援と居場所を兼ねた施設を立ち上げると。そこで、「私、行きたいです」ってお願いして、ねじ込んでいただいて。ここで英語のクラスを持ちながら、ご飯も作って、終電まで働いて働いて。「まさにこれだ!」と思いましたね。めっちゃ楽しかったですよ。


ジレンマ、そして独立へ

田坂会長:そこからなぜ今のご自身の団体を?

川野さん:勤めていたNPOでは、子どもたちと連絡先を交換してはいけないし、距離を縮めてはいけないっていうルールがありまして。「スタッフを守るためだ」という理由は理解できるものの、目の前で困ってる子がいるのに、これ以上何もしちゃいけないというならば、自分でやってみようかなと思い立ちました。

田坂会長:やっぱり相手の人生に、ちゃんと関与したかったんですね。

川野さん:そうですね。立ち上げ方はこれまでの仕事である程度わかっていました。どこに行ったら野菜がもらえて、どこに行ったら優秀なボランティアさんがいてというのも分かっていたので、自分でもできそうだなと思って。


月曜日の「いてもいい場所」

田坂会長:今の施設はどんな感じで運営しているんですか?

川野さん: 毎週月曜日の午後4時ごろから開けていて、子どもたちが好きなタイミングで来る。今日もこの後ピンポンピンポンと鳴らしてやってきます(笑)。

田坂会長:事前に「行きます」とか連絡するんですか?

川野さん:特にないです。招待制で、私がこれまで関わってきた中で「この子はもっと大人と話した方がいいな」と思う子だけを呼んでいて、今は5歳から22歳まで12人ほど来てくれます。

田坂会長:前職のNPOとの違いは?

川野さん:あちらは広くて、しっかりした組織として多くの子に関わる。こっちは「泊まりたかったら泊まれるよ」って感じで。逃げてきたの?みたいなことも受け止めながら、物件探しや生活保護の申請まで一緒に動くこともあります。

田坂会長: それはすごい。大変なことですよ。前職のNPOとは今も連携してるんですか?

川野さん:はい。一つの団体だけではできないことがいっぱいあって。勉強が必要な子は前職のNPOの拠点に行っておいでと紹介したり、月曜以外にもケアが必要な子は別のこども食堂につないだり。前職のNPOを入れるとこの10年間で、多くのネットワークができましたね。


8年続けてわかったこと。新たな課題

田坂会長:本当に意義のある活動をされているわけですけれど、課題はありますか?

川野さん:いっぱいあるのですが……やっぱり継続することが一番大事で、継続したからこそ楽しい。今ちょうど種まきがやっと芽が出た子がいる時期なのです。でも、資金難から辞めていく方や団体も結構ありまして。「子ども食堂は稼いじゃダメなんでしょ?」、「子ども食堂ってファミレスになっているよね」という世の中のイメージを壊せるような何かを生み出したいなとずっと思っているのですけど、なかなか答えがなくて。

田坂会長:ここに通ってなかったらどうなっていたのだろうという実感はありますか?

川野さん:明らかにありますね。ずっと家に一人で、誰とも喋らずにご飯を食べて。親ともなぜか違う部屋でご飯食べてるとか、結構聞くんですよ。ご飯があるだけでもまだマシみたいな子もいて。

田坂会長:切実な話ですよね。たべるばのホームページ上に寄付の仕組みがありましたよね。多摩大学の卒業生も1万人以上いるので、そこへのアプローチも考えてみたいですね。同窓会としても、ソーシャル活動への支援の仕組みや、サブスクリプションを模索しているところだし、川野さんのお話を伺っていて、このような社会的投資は本当に必要だなと実感しました。お力になれたら!

寺島実郎学長にも支援いただいた

川野さん:ぜひ、そうしていただけるとすごく助かります!私も頑張ります!

田坂会長:あ、ピンポンが鳴った。子どもたちかな??

川野さん:いえ、食事作りを手伝ってくれるスタッフさんです!


【川野礼さんプロフィール】
多摩大学グローバルスタディーズ学部1期生。
2011年卒業後、内外日東株式会社に入社し、人事部にて主に人材採用活動に従事。
教育系NPO法人での勤務を経て、東京都足立区にて、子ども食堂の「たべるば」を設立。現在はたべるばの女将として、子どもたちの「孤食」と「固食」を減らし、地域の子どもや保護者が安心して来られる居心地のいい居場所を作る活動を展開している。

たべるばのInstagramはこちら。

【編集後記】
同窓会の運営メンバーは、任意団体時代から経営情報学部の卒業生が主体となってしまっている中、グローバルスタディーズ学部の卒業生と有機的に繋がって、一緒に新しい型のアルムナイを作りたいと思っていた。そんなタイミングで川野さんとの接点が生まれた。非営利活動に関わる卒業生や在校生も多い中、子ども食堂という形で社会課題に向き合う彼女の話を、ぜひ聞いてみたかった。

英語と会計学を学んだ学生時代、採用担当として何百人もの人と向き合った人事の現場、NPOで施設立ち上げを経験した10年。それらすべてが、今の彼女の活動を支える土台になっている。

「稼いじゃダメなんでしょ?というイメージを壊したい」という言葉が強く印象に残る。善意と情熱だけで回していては、いずれ担い手が疲弊して終わってしまう。運転資金の不足、物価高騰、人手不足など、活動を取り巻く環境は厳しい。子ども食堂が社会に根づくためにも、継続できる仕組み、すなわちサステナブルなビジネスとしての算段が不可欠だ。想いと算段を両立できる人が、この分野にもっと増えてほしいし、川野さんのような実践者が孤立することなく、地域や社会に根を張って支えられる日が来ることを願いたい。子ども食堂が「誰かの善意」ではなく、社会の基盤として当たり前に存在できますように。

インタビュー実施日:2026年4月
編集:経営情報学部7期生・鍋田修彦(同窓会理事・副会長)

冨高日向子選手 引退特別インタビュー

冨高日向子さんが語る
オリンピックの舞台裏とこれからの挑戦

2022年北京冬季オリンピック、そして2026年2月開催のミラノ・コルティナ冬季オリンピックのフリースタイルモーグル競技で日本代表として世界の舞台に立ち、今回は惜しくも4位でメダルを逃した冨高日向子さん(2022年度経営情報学部卒。31期生)。
大会直後に引退を表明、翌月の富山での世界選手権では2位入賞を果たし、競技人生に堂々の区切りをつけた。

2026年4月29日に多摩大学多摩キャンパス T-studioにて行われた引退発表会後の同窓会独占インタビュー。今回のオリンピックの舞台裏、引退後はモーグルの普及活動に取り組もうとしている冨高さんに、田坂正樹同窓会長、さらには田村嘉浩田村学園理事長、杉田文章副学長なども自然と輪に加わってお話を伺った。


直前までわからなかった、今回のオリンピック出場

田坂会長:これまでの競技人生、本当におつかれさまでした。今回のオリンピックは直前までエントリーがわからなかったんですね。

冨高さん: 家族はなんとなく状況を知っていたのですが、最後まで確定はしていなくて。

田坂会長: 自分は息子と一緒にテレビで応援してたんですよ。息子は小学2年生でしたけれど、初めてモーグルを見るというのに一生懸命応援していて。「冨高さんは自分の知り合いの子なんだよ」と言ったら、もう夢中になって。スポーツが人をつなげる力ってすごいなと感じました。

冨高さん: ありがとうございます!そう言っていただけるととても嬉しいです。

田坂会長: 予選突破した時は本当に盛り上がりました。夜遅くだったのに、卒業生仲間のLINEでどこかに集まって皆で見ようかという話まで出てたくらいで(笑)。そして最後、メダルまであと一歩というところでしたね。ターン差たった0.2点差で4位・・・。あの時の心境を聞かせてもらえますか?


一番スタートという重圧

冨高さん:予選は本当に緊張しすぎてしまって。予選は1回目と2回目の2本あるのですが、ミスができないプレッシャーがあって。しかも決勝と同じ日の午前中に予選があるので、体の疲れも考えると、予選で抜けるかどうかがものすごく大事で。

田坂会長:いきなり1番スタートになりましたよね?

冨高さん:まさか1番スタートになるとは思っていなくて。それを見た瞬間に、これはまずいかもしれないって。1番と2番って、あんまり変わらないように見えるかもしれないですけど、その差って私にとってはすごく大きくて。もうロープウェイでコースを回っている最中に、呼吸が全然吸えないくらい緊張してしまって。コーチに「やばいです、息できません」って言ったら、「めっちゃ緊張してるね〜」って笑われたんですけど(笑)。

田坂会長: 笑えないですよね、それ(笑)。

冨高さん:本当に(笑)。でも滑り自体は大きなミスなくいつも通りにできて。コーチには「よく滑れたね、それだけテンパっているのに」と言われるくらいだったのですが、点数もそれなりに出てもらえて、自分でもびっくりしました。結果、5位で予選通過できて、そこで初めてちょっと肩の荷が下りた感じがしました。

決勝、3位からの同点4位という現実

田坂会長: その後準決勝、決勝と進んでいくわけですが。

冨高さん:準決勝はだいぶ落ち着いて、いつも通りに滑れました。ただ準決勝でいい滑りが出て上位についてしまって。私はいつも下の方からまくる方が好きで、追われる立場になるのはちょっと嫌だなという気持ちが正直ありました(笑)。

田坂会長:それは心理的に難しくなりますよね。

冨高さん: 決勝直前、会場の歓声がとにかく凄くて、プレッシャーがぐっと来て。でも最後は「前の人は関係ない。自分のやるべきことを全部やったら結果はついてくる」と信じて、出し切りました。少しミスが出て、タイムも準決勝より落ちてしまったんですが、その時点で3位に入って。残り2人いたので順当にいったら5位くらいかなと思っていたんですが……その後、前回オリンピックの金メダリストがまさかのミスをして、3位と4位の同点になって。

杉田副学長: テレビで見てる側がこんなに悔しいんだから、本人はどれだけ悔しいかって話ですよね。

冨高さん:本当に悔しかったですね。まさかそこで同点になるとは思ってもいなかったので。同点の場合はターン点で決まるっていうルールは知っていたんですけど、まさかオリンピックでそうなるとは。しかも私はターンが得意で、エアが苦手でこの夏ずっと頑張ってきて、エア点では勝っていたのに、ターン点の方で負けてしまった悔しさも重なって。本当に気持ちがぐちゃぐちゃになっちゃって。メディアゾーンを通って、日本人の方の顔を見るたびにもう涙が出てきちゃって……それを何度も繰り返して、コーチのところに行った時には大泣きしちゃいましたね。


現役最終戦は2位

杉田副学長: 引退の花道となるワールドカップでちゃんと結果を出しましたよね。

冨高さん:2シーズンぶりに表彰台で、しかも初めて2位になることができて。そのワールドカップ、日本での開催だったんですが、オリンピック効果もあって、会場も想定以上の方が来てくださって、帰りのバスに1時間半も並んだくらいの人数で。

黒瀬洋同窓会常務理事:私も現地へ行って初めて生でモーグルを見ましたが、いやー、すごかったですね。

冨高さん:皆さんが来てくださるとは全然知らなくて、サプライズな感じで(笑)。
引退しますと言った直後のワールドカップだったので、「最後だから見に来たよ」と言ってくださる方もいて。そのプレッシャーからか、前日は全然眠れなくて、合計2時間ぐらいしか寝れなかったんです。当日の朝はもうダメかもって思ったし、しかも当日は大雨でコンディションも悪くて。でも行って滑ってみたら意外と調子が良くて、まさかの2位になることができて。多くの方の前で、最後引退の試合で表彰台に乗れたのは本当に嬉しかったですね。 2日目は快晴で1日目以上の人が来てくださって。コースが短いので、下からの声が届くんです。オリンピックもそうでしたが、スタート直前に声が耳に届くのは本当に力になります。


コーチより、まず「広める」人へ

杉田副学長:引退してどうするのか、皆さんに聞かれていると思うのですが、コーチは今のところやらないとおっしゃってましたよね。

冨高さん:そうですね。昨日ナショナルチームのコーチからも猛烈に誘っていただいたのですが、まだ引退したばかりで、すぐにコーチやりますとは気持ちが追いつかず、これまでコーチの大変さをそばで見てきたからこそ、簡単な気持ちでは言えなくて。

黒瀬同窓会常務理事:あの上村愛子さん(1998年の長野オリンピックを始め、計5回のオリンピックに出場した女子モーグル選手)も指導されていたのですかね。

冨高さん: 愛子さんは現役を辞めてから特別コーチでキャンプをやっていらっしゃいましたが、本格的なコーチ業はやっていなくて。オリンピックまで行って、コーチをやっている元女子選手って本当に前例がないくらいで、それだけ大変なことですし。

鍋田修彦同窓会理事・副会長:冨高さんはこれからモーグルを普及したいとおっしゃっていましたが、我々同窓会がお手伝いできることだとどんなことになるのでしょうか?

冨高さん:そうですね。まずはスポットで教えるところからやりたいなと思っています。今モーグルの競技人口が減ってきていて。私が小学生でA級の公認大会に出始めた頃は、下は小学生、上は50代ぐらいまで出ていたのですが、今は本当に若い選手しかいなくなってしまっています。幅広い世代にモーグルをやってもらいたい、もっと知ってもらいたいという思いが強いですね。先日初めて自分主催のモーグルキャンプセッションを元モーグル選手の友達と2人で企画しました。来シーズンはそういったセッションやキャンプをもっとやっていきたいと思うので、バックアップいただけたら嬉しいですね。

田坂会長: 私は長野県の経営者団体の役員をやっているのですが、そこで話してもらうとかできますか?毎回その集まりにはかなりの経営者が集まってくれていて。

冨高さん:もちろんもちろん!私も長野県とはすごく縁があって、自分主催のレッスンも長野で行わせていただいたり、本当に行く機会が多くて。講演会の機会があればどんどんやらせていただきたいですし、大学や高校に行くような活動もしていきたいと思っています。これからも多摩大学の一員としていろいろやっていけたらと思っているので、よろしくお願いします。


若い世代へのメッセージ

田村理事長:小さい頃からずっとモーグルをやってこられて、相当な苦労を重ねてここまで来られたと思うのですが、多摩大生や中高生など若い人たちに、途中で諦めずに頑張るための言葉をいただけますか?

冨高さん:私自身も成績が出なくて苦しい時期が何度かあって、もうやめようかなって思ったことも何度かあります。その度に親に電話して、泣きながら「もうやめる」って言って。でも「もう少しだけ頑張ってみようよ」と言ってもらえて、冷静になると、本心から辞めたかったわけじゃなくて、苦しくてつらくて気持ちを吐き出したかっただけだったと気づいて。

特にワールドカップを回れるかどうかという瀬戸際まで追い込まれたシーズンがあって、でもそこまで追い詰められたら逆に吹っ切れてしまって。来シーズン回れなかったら回れなかったで一から頑張ろうって、思い切って楽しんで滑ったら、最後の試合でなんとか結果を出せて。吹っ切った方がなるようになることって意外と多いなって、その時に思いました。落ちてしまっても、チャンスが全て無くなるわけじゃない。今回のオリンピックもメダルには届かなかったですが、それ以上に本当に多くのものを得られたと思っていますし、やり切って清々しい気持ちになれたので。何事も楽しんでやることが、一番大事なのかなって思います。


インタビュー実施日:2026年4月 
編集:経営情報学部7期生・鍋田修彦(同窓会理事・副会長)

【開催レポート】多摩大学同窓会 ミートアップ「re:meet!」

すっかり秋めいた2025年11月16日(日)午後、東京・渋谷「グレイドパーク渋谷」にて、一般社団法人多摩大学同窓会主催の全学ミートアップ(同窓会)「re:meet!」を開催しました。

これまで経営情報学部とグローバルスタディーズ学部では、学園祭にあわせてホームカミングデー企画を実施してきましたが、両学部合同での有料会費イベントは今回が初開催となりました。当日は、1期生からZ世代までの卒業生に加え、新旧の教職員など約160名が一堂に会し、年次や世代を超えて旧交を温めながら、近況交換を楽しみました。

当日は多くの卒業生が会場受付前で集まり、急遽開場時間を前倒しするハプニングも。ウエルカムドリンクを片手に、開始前から自然と会話の輪が広がっていきます。また会場スクリーンで映したロール映像では、2022年北京冬季オリンピックにモーグルスキー日本代表として出場し、今年3月のスイス世界選手権では見事銀メダルを獲得した冨高日向子さん(経営情報学部31期生)からのビデオレターも流れ、注目を浴びていました。

オープニングは、フリーアナウンサー小林麻美子さんのMCで華やかにスタート。開会の挨拶では、田坂正樹同窓会長(経営情報学部3期生:株式会社ピーバンドットコム取締役会長)が登壇し、今回の企画に込めた意図と、これからの同窓会の方向性を説明。「今日の時間を思い切り楽しみましょう!」と高らかに宣言し、会場の空気が一気に前のめりになりました。

続いて、急遽当日欠席となった寺島実郎学長に代わり、杉田文章副学長が登壇。1989年(平成元年)の開学時から教職にある杉田先生が、多摩大学の歩みから現況までを丁寧に語ってくださいました。温かみと愛情のこもった言葉に、卒業生からはどっと笑いと拍手が起こり、会場のボルテージは一段上がりました。

その後は、歴代の同窓会長である 三木智子さん(経営情報学部1期生)、白倉正子さん(経営情報学部4期生)、黒瀬洋さん(経営情報学部7期生)が壇上でご挨拶。(経営情報学部3期生の鈴木信夫さんは途中からご参加)多摩大愛あふれるメッセージが続き、田坂同窓会長も加わり、盛大に乾杯となりました。

会場の至る所でグラス片手に談笑の渦。同期やゼミやサークルの仲間で固まるだけでなく、同窓会理事会メンバーが参加者それぞれのプロファイルを踏まえてつなぎ合わせることで、新たな出会いが次々に生まれていきました。途中からは小林麻美子さんと、鍋田修彦同窓会副会長がマイクを持って会場内を回り、5名への突撃インタビューも実施。思わず笑いが起きるやり取りのあとには、名刺を手に駆け寄る卒業生の姿も見られました。

会の中盤には、全国高校サッカー選手権東京都決勝に進出した多摩大学目黒高校の応援に駆けつけていた田村嘉浩理事長が会場に到着。多摩大学の卒業生に向けた貴重なお話をいただき、会場が引き締まる瞬間となりました。

2時間半のイベントも、体感ではあっという間。クロージングでは、経営情報学部7期生の荻野元治さん(アサヒビール株式会社勤務)が挨拶。就職氷河期の真っ只中で大企業の内定を得るまでの苦労を振り返りながら、「それでも挑戦し続けてほしい」という想いを、後輩たちへ力強く語ってくださいました。

学園歌 「この輝ける日々よ」(阿久悠作詞、三木たかし作曲)が流れると、会場のあちこちで肩を組み、自然発生の大合唱。笑顔と拍手に包まれながら、盛況のうちにお開きとなりました。

今回のイベントでは、学内公募で集まった経営情報学部・グローバルスタディーズ学部の現役生7名が運営スタッフとして参加し、盛り上げとオペレーションの両面で活躍。多種多様な卒業生と交流する機会を楽しみつつ、終始前向きに動く姿が印象的でした。

ミートアップ終了後も渋谷の街では、ゼミ単体の同窓会が開かれたり、三次会まで盛り上がったりと、それぞれが「母校に回帰した一日」を満喫されたようです。

卒業生総数が1万人を超え、多摩大学同窓会は今回のミートアップを機に、今後もさまざまなアプローチと企画や施策を展開してまいります。各界で活躍する卒業生を掘り起こし、「同じ大学で学んだ仲」という共通項を軸に、ビジネス・趣味・地域・子育てといったカテゴリーで新たなつながりが生まれる場を、これからも共につくっていきましょう!

編集:経営情報学部7期生・鍋田修彦(同窓会理事・副会長)

同窓生連載インタビュー vol.5

教育者としての今、そしてこれから(後編)
〜杉田文章副学長も交えて語る大学の教育〜

第一部の対談が盛り上がる中、偶然通りかかった杉田文章教授(現・副学長)が話に加わることに。多摩大学の教育について、より深い議論が展開されました。

偶然の再会から始まった教育論

鍋田理事: 杉田先生!ちょうど同窓会のインタビューで、今回、アカデミック領域ということで、新西さんと内田さんにお話を伺っていたところです。小樽から内田さんが来てくださって。せっかくですから、ぜひご一緒に。

内田氏: 杉田先生、お久しぶりです。実は私、学生時代にゴルフの授業を取っていました(笑)。

新西氏: 私も杉田先生のスキーの授業を取っていましたが、「覚えていない」と言われました。

鍋田理事:新西先生は多摩大学卒業生で専任教員になった第1号ですよね。非常勤講師は過去いらっしゃいますけど。母校に戻るというのは感慨深いでしょう。

専門領域の広がりと深化

鍋田理事: お二人は現在どのような科目を担当されていますか?

内田氏: 小樽商科大学の大学院でサービスマネジメント、学部では経営戦略論を教えています。最初は産業集積とか地域産業の活性化をテーマにしていたのですが、観光学の専攻増設で観光にシフトして、その後サービス全体に専門を広げました。10年かけてサービスのことが全部わかるようになってきた感じです。

鍋田理事: 最終的には多摩大学で学んだことに行き着いた感じですか?

内田氏: そうですね。経営大学院に移籍することを意識し始めた際に、観光だけでなくサービス全般に専門領域を拡大しなきゃいけないって考えた時、近藤隆雄先生の顔が浮かんで、会いに行っていろいろと助言をもらいました。それがなかったら、今の私はいないのですよ。まだ観光学と産業集積の研究者かもしれない。

新西氏: 私はデザイン思考とユーザーインターフェースを教えています。

杉田文章教授・副学長

学生たちとの向き合い方

鍋田理事: 現在の学生たちの特徴はどう感じていますか?

新西氏: 今の学生はスマホのフリック入力が当たり前で、レポートもそれで書きたがる。エクセルもフリックでやりたがるのですよ。絶対無理だろうと思って(笑)。

内田氏: 学生の多様性が本当に増えています。学力のレンジがむちゃくちゃ広がっていて、高い子もいるのですけど、そうじゃない子もいる。全員に満足できる授業なんて無理だろうという感じがあります。

杉田教授: スタディスキル入門という授業で、パソコンの基本的なリテラシーを1年生全員必修で学ぶようになりました。それでも苦手意識がある学生は多いですね。でも多摩大学の実学の伝統は続いていて、地域連携で学生を外に連れ出す先生も多いですよ。松本先生が奥多摩の観光開発をゼミ全体でやっていて、夏休み中も必ず多摩大生が現地のお店に張り付いているみたいな。

新西 誠人氏

授業評価と学生満足度の難しさ

鍋田理事: 授業評価についてはどのように考えていますか?

新西氏: デザイン思考の授業で「多摩大の中で一番良い授業だった」と言ってくれる人がいる反面、授業評価の平均値で見ると平均以下なのです。ハマる人にはハマる授業をやっているという感じです。

内田氏: 小樽商科大学の経営大学院は消費者意識が非常に強くて、授業評価をするとクレーマーのような意見が出てくることも多いです。顧客との共同生産という概念を授業で教えながら、「消費者意識ばかりで価値を共創しようとする姿勢がないと、得る価値は少ないのだぞ」って説得するんですけど、結局は価値を享受する姿勢にとどまってしまう人も多い。

杉田教授: VOICE(授業評価)自体が、もともとは多摩大学が始めたものですけど、今じゃやらないなんて許されない時代になっちゃいました。ポイントはどのように結果を読むかですよね。満足度調査って企業でも難しいし。

内田 純一氏

実学教育の現在形

鍋田理事: 多摩大学の実学教育は今どのような形で展開されていますか?

杉田教授: 地域との連携協定がとても増えています。教育目的ではやっているわけではないプロジェクトに学生を参画させることで学生が育つ。これは本当に今すごくできていると思います。

鍋田理事: 同窓会としても寄付講座を検討しているのです。OBで経営の第一線で活躍しているメンバーがいますから。

新西氏: それはいいですね。今、MPコース(Marketing Psychology先端的マーケティング心理コース)という選抜した20人くらいの学生しか入れないコースがあって、先生たち5、6人で鍛えるというのがあります。データ処理とかもやるので、ゲスト講師として来ていただくこともできると思います。実践の場があると多摩大生は張り切りますよね。実学の多摩大学という思いがあるので。

鍋田 修彦 同窓会理事・副会長


大学院で学ぶ意義

鍋田理事: 多摩大学の卒業生は社会人になってから大学院に進む人が多いですが、その意義についてどう思われますか?

新西氏: 大学院は同じ志を持つ人とのネットワークを作る場です。普段では会えないような人、でも同じところに興味がある人に会える機会で、卒業してからも関係性がすごくいい感じで続けていくことができる。あと、その分野の専門家の授業を受けられる。講演会とか呼ぼうとしたら何十万もかかる人の授業を受けられるわけです。コスパがめちゃくちゃいい(笑)。

内田氏: 大学という装置をうまく使いながら、社会で生きていくためのヒントを得る場所だと思います。知識を得ることが先じゃなくて、社会で生きていくことが先にあって、そのためのヒントを得る。あと、多摩大学の卒業生なら二度楽しめるかもしれません。多摩大学の先生って教えることが上手で、研究者の自分と教育者としての自分を分けている先生が多かった。だから、学生が実学を学ぶ際に、研究というフィルターをあまり意識せずとも、実社会で役立つ知識を習得することができた。でも大学院に行くと研究を嫌でも意識しなければならなくなります。そこでサバイブすれば、アカデミックな訓練の持つ面白さも理解できるようになれるはずです。

杉田教授: 野田一夫先生は入学式の挨拶で「ここが第一志望だった奴、手を挙げろ!」と言って「挙がんないだろ、ほら!」とか言うのが定番でした(笑)。でも2年3年と経つにつれて、産業社会の本当のトップレベルの方々から学べる。その世界には人を育てるスキル、人をその気にさせて伸ばすスキルがあって、それは本当に貴重でした。

教育者としての願い

鍋田理事: お二人はこれからどんな教育者でありたいですか?

内田氏: 学生に何かに取り組んだことで生きていく姿勢を身につけてほしい。大学時代に地域との関わりでもいいし、資格の勉強でもいい。学ぶということで成長する姿勢を何かどこかで身につけてほしいんです。

新西氏: 自立した人間として生きていく力を身につけてほしい。挨拶をする、嘘をつかない、お礼を言える、そういう基礎的なところから。何もしないより何かやってみること。野田先生の「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という言葉を今でも大切にしています。

同窓生へのメッセージ

鍋田理事: 最後に同窓生へメッセージをお願いします。

内田氏: 私は今でも困った時に多摩大学で学んだことを思い出します。学び続けることの大切さ、そして頼れるネットワークがあることの価値は計り知れません。多摩大学で学んだことは、何年経っても生きています。

新西氏: 同窓生の皆さんも自分の力で生きていくことを大切にしてほしい。学び続ける機会はいくらでもあります。大学院でもいいし、何か新しいことにチャレンジすることでもいい。動くことが大事ですね。

杉田教授: 同窓生の皆さんが現役学生に実践的な学びを提供する機会があれば、それは学生にとっても、OBの皆さんにとっても価値があると思います。多摩大学の実学と学際性のバランス、これからも大切にしていきたいですね。

鍋田理事: 今日は貴重なお話をありがとうございました。技術者から研究者へ、そして教育者へと歩まれたお二人の話から、学び続けることの意義を改めて感じました。杉田先生も加わっていただいて、多摩大学の教育の本質が見えた気がします。

多摩キャンパス 図書館にて


【内田純一氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部3期生
小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻(専門職大学院)教授・博士(国際広報メディア)
大学卒業後,AFLAC日本社(現アフラック生命保険株式会社)勤務。この間,北海道大学大学院経済学研究科修士(経営学)課程修了。2002年より大学に転じ,北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院准教授等を経て2017年より現職。

【新西誠人氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部6期生
多摩大学 経営情報学部経営情報学科 准教授・博士(技術経営)
大学卒業後、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。東京工業大学大学院(現・東京科学大学大学院)イノベーションマネジメント研究科博士後期課程修了。日本電信電話株式会社(NTTサイバースペース研究所)、株式会社リコー(リコー経済社会研究所)を経て2022年4月より現職。

【編集後記】

「多摩大学で学んだことが、今でも私の研究と教育の土台になっています」。内田氏が語ったこの言葉に、多摩大学の教育の真価が表れている。学生時代に身につけた知識や考え方が、20年以上経った今も彼らの専門性を支え、新たな分野を開拓する原動力となっているのだ。

新西氏が母校の教壇に立つことになった経緯も興味深い。公募で偶然見つけた募集要項が、まさに自分がキャリアを通じて培ってきた専門分野と完全に一致していたという。そして今、かつて学んだ教室で、後輩たちにデザイン思考やユーザーインターフェースを教えている。「教わる立場と教える立場でこんなにも違うんだ」という新西氏の言葉には、母校への深い愛情と、教育者としての新たな発見が込められている。

偶然参加された杉田副学長の温かな視点も加わり、多摩大学の教育理念である「実学性と学際性、そして人を育てる力」の普遍的な価値が浮かび上がる対談となった。野田一夫初代学長の「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という言葉は、今も卒業生たちの行動指針として生き続けている。

インタビュー実施日:2025年9月
編集:経営情報学部11期生・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.5

多摩大学から研究者・教育者への道 (前編)

〜二人の卒業生が語る学びと挑戦の軌跡〜

多摩大学の卒業生から、今や大学教員として教壇に立つ二人の先生をお迎えし、特別対談を実現しました。小樽商科大学教授の内田純一氏(3期生)と、多摩大学准教授の新西誠人氏(6期生)。技術者から研究者へ、そして教育者へと歩みを進めた二人が、多摩大学での学びと、その後の挑戦について語ります。聞き手は同窓会の鍋田修彦理事・副会長(7期生)です。

多摩大学との出会い、それぞれの原点

鍋田理事: お二人の多摩大学入学のきっかけから教えてください。

内田氏: 実は私、二次募集での入学なのです。3月の終わりぐらいに、二次募集をやっていた都内の大学から選びました。

新西氏: 私は中学生の頃から父親が取っていた日経ビジネスを読むのが好きで愛読していました。それと、母が野田一夫先生のファンで、大学で観光事業研究会みたいな会に入っていて野田先生のことを知っていたのです。「こんな大学あるよ」と勧めてくれて。立教じゃなくて多摩大を勧めてくれたのが運命的でした。経営の勉強がしたくて多摩大学がいいなと決めました。

内田 純一氏

鍋田理事: ゼミはどちらでしたか?

内田氏: 柳孝一先生のゼミです。野村総研出身の先生で、ベンチャーや流通の専門でもあったので、その辺りに興味があって。起業とかベンチャーの話も聞きたかったし、システムとコンサルという野村総研の二本柱の話も興味深かった。実は稼いでいるのはシステムだっていう話とか。

新西氏: 私は彩藤ひろみ先生(齋藤裕美先生。同姓同名の先生がいたため、2007年より学名として彩藤ひろみとしています)と出原至道先生、両方です。単位は1個しかくれなかったのですけど(笑)。

意外な発見、情報系への目覚め

鍋田理事: 入学してからの学生生活はいかがでしたか?

内田氏: 面白い講義が多くて結構真面目に勉強していました。経営系はもちろん情報系も。

新西氏: 経営をやりたいと思って入ったのに、経営系の成績が軒並み悪くて(笑)。すごく悪くて、全く勉強してないはずの情報系の成績がめちゃくちゃ良かったのです。「俺、選択間違っているよな」って思いました。論理的な思考が情報系には向いていたのでしょうね。字が下手だったのでキーボード入力は凄く良くて、絵も描けないので3Dだったら絵が描けるということで、彩藤ひろみ先生のCGの授業にハマりました。95年ぐらいから商用インターネットが始まって、PC-98から多摩大学ではMacに移行していく時代でした。

内田氏: 井上伸雄先生の情報通信論の授業や今泉忠先生のデータ解析の授業のことが印象に残っています。

新西氏: 彩藤先生からCGのアプリケーション側を学んで、出原先生からはCGがどうやって作られるのかという原理を学びました。出原先生はまだ助手で、東大の加藤先生とかも非常勤で来られていて、本当に豪華な教授陣でした。

新西 誠人氏

エンジニアとしてのキャリアスタート

鍋田理事: 卒業後のキャリアについて教えてください。

内田氏: アフラックに就職して、最初の3年間はネットワークエンジニアでした。本当はシステム部門になるだろうと思って就職したのですけど、予想通りシステム部門配属で。ちょうどクライアントサーバーへの切り替え時期で、それまでのダムターミナルをパソコン化して、同軸ケーブルを全部LANに変えて、全国の支社を回っていました。当時は1995年。会社にまだインターネットが入っていなかったので、それを導入する仕事もしていました。

鍋田理事: 多摩大学で学んだ知識はどれくらい役立ちましたか?

内田氏: 実は配属に多摩大学が関係していたのです。電気通信大学出身の上司がいて、「多摩大といえば井上伸雄先生だな」と言って、ネットワークチームに入れてくれたんです。その意味では、希望が叶ったのは多摩大学のおかげでした。ただ、実際にはそんなに実力があったわけじゃないので、必死で1年目は勉強しました。ネットワークスペシャリストの試験とか受けに行ったりとか。

新西氏: 私はSFC(慶應義塾大学大学院)に進学しました。彩藤ひろみ先生がSFCでも講師をされていて、「推薦してあげるよ」と軽く言われたので「お願いします」みたいな(笑)。3DCGのソフトウェアをもっとみんなが使えるようにならないかということを研究していました。

鍋田 修彦 同窓会理事・副会長

大学院からNTT研究所へ

鍋田理事: 新西さんはその後、NTTの研究所に入られたのですね。

新西氏: はい。研究所として自由度が高いという話を聞いていて、いろいろ自由にやらせてくれるのだなと思って。実はNTTから奨学金もいただいていたのです。

鍋田理事: 研究所では何を研究されていたのですか?

新西氏: 非接触ICカード、今のSuicaみたいなものの通信距離を伸ばす研究です。ガチ物理学の世界で、電磁気学とか、ビオサバールの法則とか(笑)。忘れていたことをやり直して、シミュレーションしまくるみたいな。でもNTTの研究所って、いろいろ研究は出るのですけど、それが事業に結びつかないという課題があって。しかも私が行った部署は、なぜかそこだけみんなスーツを着ているという感じでした(笑)。

北海道での転機と大学院進学

鍋田理事: 内田さんは札幌に転勤されたのですよね。

内田氏: 1998年1月1日付けで北海道に転勤しました。大手都市銀行の拓銀(北海道拓殖銀行)が経営破綻した次の年で、山一證券も同時に破綻して、本当に大変な時期でした。向こうに行ったら拓銀の後始末みたいな仕事もありました。でも、そこで転機が訪れたんです。働きながら北海道大学の大学院に通うことにしたのです。

鍋田理事: 働きながらの大学院は大変だったでしょう。

内田氏: 夜対応してくれる先生を見つけて授業を取って。正規の夜間開講じゃないのですよ。ちょうど大学院重点化という時期で、北大も全部の学部を重点化しないと研究大学として認められないという状況でした。今まで4、5人しか入ってなかったところに、50、60人入っちゃったのです。私はちゃんと勉強して入試を突破しようと思っていたのだけど、門戸がいきなり開いちゃって、なんか損した気分でした(笑)。でもその分、いろんな人がいて楽しかった。経営者みたいな人も入ってきたし、2代目経営者みたいな人も同級生にいました。

リコーへの転職と博士課程への挑戦

鍋田理事: 新西さんはNTTから転職されたんですね。

新西氏: 3年半でリコーに転職しました。SFCの先輩から「リコーで人を求めているのだけどどう?」ってメールが来て、5分後に「行きます」って返信しました(笑)。

鍋田理事: 5分ですか!

新西氏: スーツの職場が嫌だったのと、NTTではプログラミング禁止令が出ていて。プログラミングするのは子会社の人たちの役割だから、お前はプログラミングできるかもしれないけど絶対やるなって言われて。リコーでは自分でどんどんやっていけたので楽しかったです。机型の会議装置を作って、会議を支援できるようなものを開発していました。

6年9ヶ月の博士課程

鍋田理事: 博士号取得までの道のりを教えてください。

新西氏: リコーが大学院のスポンサーになってくれて、東京工業大学(現・東京科学大学)の技術経営(MOT)の博士課程に進みました。6年9ヶ月在籍しました。最大9年まで在籍できるのですけど、途中で満期退学して論文博士を取る道もあったのですが、それだとあまり行かなくなるだろうと思って、ずっと学費を払い続けました。

鍋田理事: その間のストレスは相当だったでしょう。

新西氏: 夜中3時、4時まで論文を書いたり読んだりして、朝普通に会社に行く生活で、すごく寝不足でした。頭を活性化させるために、会社の下のファミリーマートでふらふらと甘いものを買って食べる生活で、どんどん太っていきました。家族旅行に行きたいと言われても「無理」って断ったりして。妻から「いつ取るの」「もう諦めたら」とか言われて、逆にやる気を出すという(笑)。

研究者から教育者へ

鍋田理事: 内田さんはどのように教員になられたのですか?

内田氏: 修士号を取ったあとに北大の助手になったのですが、在職しながら論文博士を取りました。

鍋田理事: それはそれで大変だったでしょう。

内田氏: その後、籍を置いていた大学院に観光学の専攻を増設する準備をすることになった際にも多摩大の知識が活きました。実は多摩大学で観光関連の科目をたくさん取っていたのです。野田一夫学長(当時)がレストランホテル学科を増設しようとしていて、フードサービス論とかホテル経営論とかレジャー産業論とか、ニューオフィス論とか。その知識があったので、観光研究者や実務家のネットワークみたいなものがなんとなく分かっていました。文科省の大学設置審査委員会に増設が認可され、私はその新専攻に移籍して准教授になりました。その意味では、ずっと多摩大学の時の知識を切り売りして生きているのですよ(笑)。

母校への帰還

鍋田理事: 新西さんは多摩大学の教員になられましたが、どのような経緯で?

新西氏: リコーの上司に「ここにいても絶対偉くならないから、どこか行った方がいい」と言われて追い出されました(笑)。JREC-INという公募サイトで、ユーザーインターフェースとか人間中心設計、デザイン思考とか、まさに自分がやってきたことの募集を見つけて。どこの大学かなと思ったら、多摩大学!?って。
JREC-IN:国立研究開発法人科学技術振興機構が運営する、研究人材のためのキャリア支援ポータルサイト

鍋田理事: 直接声がかかったわけではなかったのですね。

新西氏: みんなそう思うのですけど、公募です。彩藤先生にFacebookでメッセージを送って「多摩大の公募を出そうと思うのですけど、どう思います?」って聞いたら「出せば?」で終わり。意外とドライでしたね(笑)。

鍋田理事: そして母校に戻られた。感慨深いものがあったでしょう。

新西氏: 学生だった場所で教員として戻ってくると、見える景色が全然違いますね。立場が違う、教わる立場と教える立場でこんなにも違うんだなと。

多摩キャンパス 101号室にて


後編では、対談の途中で偶然通りかかった杉田文章副学長も加わり、現在の教育活動や学生への思い、そして多摩大学の教育の未来について、より深い議論が展開されます。教育者として今何を感じ、どのような思いで学生と向き合っているのか。また、社会人が大学院で学ぶ意義や、同窓会への期待についても語っていただきました。

<後編は10月20日に掲載予定です>

【内田純一氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部3期生(1991年入学)
小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻(専門職大学院)教授・博士(国際広報メディア)
大学卒業後、Aflac日本社(現アフラック生命保険株式会社)勤務。この間に北海道大学大学院経済学研究科修士(経営学)課程修了。2002年より大学に転じ、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院准教授等を経て2017年より現職。

【新西誠人氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部6期生(1994年入学)
多摩大学経営情報学部経営情報学科 准教授・博士(技術経営)
大学卒業後、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。東京工業大学大学院(現・東京科学大学大学院)イノベーションマネジメント研究科博士後期課程修了。日本電信電話株式会社(NTTサイバースペース研究所)、株式会社リコー(リコー経済社会研究所)を経て2022年4月より現職。

同窓生連載インタビュー vol.4

人生観を変えるために挑戦し続けた起業家が熟成スイーツで勝負する理由

多摩大学の卒業生インタビュー第4弾。今回は、IT事業からタイでの飲食事業、そして熟成スイーツ事業へと次々に新しい挑戦を続ける株式会社ビースリー代表の田和充久氏にご登場いただきました。大学時代は「ほとんど授業に出なかった」と笑いながら語る田和氏。しかし、ボランティア、スカイダイビング、バイクでの日本一周、フィリピンの電気も通っていない村でのホームステイなど、「人生観を変える」ための挑戦を4年間続けた経験が、現在の事業家としての原動力になっています。森公美子さんも絶賛する熟成チーズケーキの開発秘話から、若い世代へのメッセージまで、熱く語っていただきました。

※対談場所は田和氏が営む大田区のチーズケーキ工場をお借りしました。


締め切り前日に決めた多摩大学への進学

田坂会長:今日はチーズケーキ工場に寄らせていただいてありがとうございます。普段から工場には?

田和氏:注文が入りすぎてどうしても人手が足りない時、週に1回か2回ぐらいは入ったりしています。

田坂会長:まずは学生時代の話から。どういう経緯で多摩大学に入ったの?

田和氏:正直に言うと、高校は進学校に通っていたもののまったく勉強しないで落ちこぼれて。でも大学に行くのは当たり前みたいな環境だったので、浪人していて。実は最初、他の大学に受かってそこに行く気満々だったのです。

田坂会長:えっ、そうだったの?

田和氏:そうそう。でも多摩大学の合格が後から来て。当時は携帯電話とかないので、連絡も取らずに海外に遊びに行っちゃっていて。親が「締め切りあるよ」って。ちょうど運良く前日ぐらいに家に帰って、親も「多摩大学、面白そうらしいよ」って言っていて。実家が東京の国立市だったので、一番近いしいいんじゃない?みたいな感じで決めました。

月1〜2回しか大学に行かなかった学生時代

田坂会長:大学時代の思い出は?

田和氏:本当に僕は大学に行ってなかったのですよ。月1回とか2回とかそんなレベル。でも今でも連絡取る人って、やっぱり面白い人間が多くて。多摩大学って「なり上がろう」じゃないけど、何か面白いことやろうみたいな人間と、ちょっとテンション落ちているような人間に結構分かれていたと思います。

田坂会長:授業にも出ないで何していたの??

田和氏:誰かが取っている授業のノートをコピーしてもらっていました。300円とか入れて「もう一部お願いします」って(笑)。みんないい人が多かったから、「分かりました」って2部コピーするのを3部にしてもらって。

人生観を変えるための4年間

田坂会長:学校に来てないときは何を?バイト?

田和氏:バイトもしてなくて、パチンコとかマージャンとか。でも大学生っていう4年間の中で、「人生観を変える」っていうのはどんなことだろうって結構考えていて。芸能人が「人生観がガラッと変わりました」とか言うじゃないですか。そんな変わることってあるんだって。

田坂会長:それで?

田和氏:人が「人生観が変わった」って言ったことを全部やってみようと思って。ボランティアやったら人生観が変わったって聞いたら老人ホームに行って、スカイダイビングしたら変わったって聞いたらやってみて、オーロラ見たら変わったって聞いたらアラスカ行って、日本一周したら変わったって聞いたらバイクで一周して。

田坂会長:すごい行動力だね。

田和氏:治験のバイトとかして何十万とかもらって、それを持ってオーロラ見に行ったり。実家に住まわせてもらっていたから、お金が出ていくことがなかったので。

フィリピンの電気も通ってない村でのホームステイ

田和氏:ホームステイがしたいって先輩に言ったら、「すごいホームステイ」を紹介してくれて。行ってみたらフィリピンの山奥の電気の通ってない村で。

田坂会長:えっ?

田和氏:タガログ語さえ通じない村だったのです。でも人間ってそこにいると本当にウルルン(※)みたいな感じで、だんだん現地語が分かってくるのですよ。「こんな現地語がわかってきて、俺はどうなるのだろう」と思いながら(笑)。でも帰る時は本当に感動して。
(※「世界ウルルン滞在記」1995-2007にTBS系列で放送された世界ホームステイドキュメンタリー番組)

田坂会長:それ、「すごい」の意味を勘違いしたんじゃない??

田和氏:そう!僕は「すごくいいホームステイがしたい」って言ったつもりだったのに、「すごいホームステイ」を紹介されたらしくて(笑)。でも若いからこそできる経験でしたね。

卒業1週間前に就職が決まる

田坂会長:大学卒業後は?

田和氏:留年していたので、卒業の1週間前まで就職活動してなくて。いきなり就職浪人になってしまうので、「人生ヤバくない?」みたいな。それでクイックという東証一部上場(現・東証プライム上場)の人材企業の新卒を受けに行ったら、社長が「面白いな、そんな奴がいるのか」って。「今中途採用しているから中途採用受けろ」って言われて、来週から来なさいみたいな。

田坂会長:5月後半ぐらい?

田和氏:そう、3月卒業して5月ぐらい。最初はアルバイトみたいな感じで、人材広告の営業をやっていました。

エキサイト株式会社からの独立、そしてタイへ

田坂会長:その後エキサイトに?

田和氏:28歳までだったら新しい場所に行けるんじゃないかと思って。エキサイトはインターネットのポータルサイトの会社で、いわばメーカーみたいなものなので、自分でルールを決められる。営業で3、4年やって、その後エキサイトブログとかの提携の責任者をやって、2007年に独立しました。

田坂会長:独立して何を?

田和氏:最初はIT関係の代理店とか、逆SEO(風評被害の元となるネガティブな情報を含むWebページの検索結果順位を下げるための施策)とか。でも「海外で勝負したい」と思って、ベトナムとかタイとか見て回って、最終的にタイでジンギスカン屋を始めました。

田坂会長:なぜにジンギスカンを?

田和氏:人に頼らないモデルがいいと思って。フランチャイズは面白くないし、じゃあお客さんが調理するモデルがいいだろうと。ジンギスカンなら仕込みと仕入れができればいいのではいかと。

コロナ禍で熟成スイーツへ転換

田坂会長:今は?

田和氏:タイでジンギスカン屋とベーカリーカフェの2店舗やってたいたのですが、コロナで大変なことになって。タイでは補助金まったく出ないし、お金も一切貸してくれない。それで新規事業としてスイーツを始めました。

田坂会長:なぜにまたスイーツを?

田和氏:スイーツが一番再現性あると思って。レシピ通り作れば味が安定する。うちは一つに絞ることで、日本全国に「それだけは食べたい人」がいるんじゃないかという考え方で、チーズケーキとガトーショコラに絞っています。

(田和氏が経営されている「完全グルテンフリー専門 熟成バスクチーズケーキ」)

熟成技術へのこだわり

田坂会長:熟成スイーツの特徴は?

田和氏:チーズケーキはグルテンフリーで、粉を入れていないのです。普通は粉を入れるとねっとり感が出るけど、ザラつくんですよね。うちは特別な熟成をすることで、ねっとり感を増して滑らかさを追求しています。

田坂会長:熟成って難しくない??

田和氏:熟成って基本的にスイーツ業界では敬遠されているのです。熟成、発酵、腐敗って紙一重で、腐敗の一歩手前が美味しいケースもある。うちはタンパク質を酵素が分解してアミノ酸に変化させることを熟成と定義していて、グルタミン酸が1.8倍増えてます。

大御所ミュージカル歌手も絶賛

田坂会長:この前、新宿の伊勢丹本店でも販売してましたよね?

田和氏:はい。実はミュージカル歌手の森公美子さんには、僕が普通に事務所に50行ぐらいの熱いメールを送って「無料で送るので食べてください」って。最初は「お断りします」って来たのですけど、事務所の社長が「熱い思いを感じたので森には伝えておきます」って。2週間後に「森公美子」って注文が入って、その後フジテレビの番組で紹介してもらいました。

「やれない理由」を探すより動くこと

田坂会長:すごい行動力だね(笑)

田和氏:動けば何かが起こるっていうのはすごく感じていますね。多摩大の学生にも伝えたいのですが、やれない理由を見つけるよりは、やってみて、どう先に行けるかっていう方が大事。やれない理由なんていくらでも出てくるので。

田坂会長:伊勢丹では完売したようで!

田和氏:はい。でも正直、最初は50個って言われて。「いらっしゃいませ」ってダイソーで買ったアクリルパネルつけて立っていましたよ(笑)。恥ずかしいけど、売れた方がいいので。

養護施設への寄付活動

田坂会長:不揃いになってしまったチーズケーキを養護施設に送っているんだって??

田和氏:10個貯まるたびに施設に送っています。児童養護施設って大体50人いることが多くて、10個あれば児童全員と職員の人、みんなで食べられる。誕生日会とかできるので。冷凍だからいつでも食べられるし、お礼状もたくさんいただいています。

同窓会への期待

田坂会長:最後に、同窓会に期待することは?

田和氏:「多摩大学卒業です!」と言いたくなるような学校になってほしいですね。無名だからこそ、絆が強いならすごくいい。東大の人は「どこの大学ですか?」って聞かないらしいんですよ。自分が一番いい大学だから、他の人に聞くと失礼にあたるって。悪い大学の人間は恥ずかしいから言わない。その両極端があるらしくて。

田坂会長:なるほど。

田和氏:多摩大学がもっと違う形で何かうまくつながると、小さいとか弱小とかじゃなくて、何か違うものが出るんだったらいい。忘れ去りたいみたいなんじゃなくて、思い出になるような。


【田和 充久氏 プロフィール】
経営情報学部3期生(1991年入学)。卒業後、株式会社クイックを経て1999年エキサイト株式会社(現・エキサイトホールディングス会社)入社。新規事業責任者として検索エンジンや通信回線事業を手掛ける。2007年に株式会社ビースリーを設立し、WEBマーケティングや海外食品事業を展開。近年は独自開発の熟成バスクチーズケーキのオンライン販売など、新しい領域にも挑戦を続けている。

【編集後記】 田和氏のインタビューを通じて印象的だったのは、「人生観を変える」ために4年間挑戦し続けた姿勢だ。授業にはほとんど出なかったというが、その代わりに得た経験の数々が、現在の事業家としての土台になっている。「やれない理由を探すより、どうやったらやれるか」を考える。この精神は、まさに多摩大学が育てたイノベーター精神そのものではないだろうか。熟成スイーツという新しい分野で挑戦を続ける田和氏の今後に注目したい。

インタビュー実施日:2025年7月
編集:経営情報学部11期生・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.3

オリンピアンが語る「繊細さと挑戦」

—— モーグルを広める夢と多摩大学での学び

2022年の北京オリンピックにフリースタイル女子モーグル日本代表として出場し、今年2025年3月にスイスで開催されたワールドカップでは、銀メダルを獲得した冨高日向子氏。多摩大学在学中から世界を転戦し、競技と学業を両立させてきた彼女に、田坂正樹同窓会会長がお話を伺いました。オリンピックという大舞台での経験、そして多摩大学での学びが今の自分にどう活きているのか。来年2026年冬のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指す、若きアスリートの素顔に迫ります。

※多摩大学職員でもある冨高氏、今回の対談場所は職場でもある多摩キャンパスにて行いました

3歳から始まったモーグルへの道

田坂会長:ワールドカップでの銀メダルすごいなと思ったのですけど、どういう経緯でモーグルを始めることになったのですか?

冨高氏:スキー自体は3歳ぐらいから始めていて、親がスキー好きで「一緒に滑れたらいいな」という思いで連れて行ってもらっていました。小学校1、2年生の時に、たまたま入ったスキースクールでコブを滑った時に「すごく楽しい!」と思って。そこでモーグルという競技があることを知り、やりたいと思ったのです。

田坂会長:東京の小学校から、シーズンになるとスキー場に通って練習していたんですね。

冨高氏:最初は軽い気持ちで始めたので、冬になったらスキーに行って、モーグルの草大会に出る程度でした。でも小学校4、5年生から本格的にやるようになって、白馬村スキークラブに所属してからは、夏も冬も毎週白馬に通うようになりました。

田坂会長:夏もあの水に飛び込むやつ?

冨高氏:そうです。白馬は当時すごく強いチームで、上村愛子さんも先輩にいて。その背中を見て「私もいつかああなりたいな」と思いながら頑張っていました。

高校時代の栄光と挫折

2018年、高校2年生の時に全日本スキー選手権で優勝。しかし、その年は平昌オリンピックの選考に落ちるという悔しい経験もした。

冨高氏:ワールドカップを1年回っていたのですけど、基準をクリアできずにオリンピック選考から落ちてしまって。オリンピックを家で見ながら、モチベーションも少し落ちていました。でも全日本は次の4年に向けて大事な試合で、引退する先輩もたくさんいたので、その先輩たちに恥じない滑りをしようという思いで臨みました。

田坂会長:悔しさをバネにしたのですね。

冨高氏:はい。その経験が、次のオリンピックへの原動力になりました。

多摩大学を選んだ理由

田坂会長:モーグルをやりながら多摩大学に入学したきっかけは?

冨高氏:最初は東京を離れることも考えていましたし、そのまま就職している先輩もいました。でも私自身、モーグルを辞めた後に「モーグルという競技を広めたい」という思いがすごくあって。高校の時に多摩大学を教えてもらい、経営や自分から発信する術を学べると聞いて、入りたいなと思いました。

コロナ禍での両立生活

大学生活とトップアスリートとしての活動の両立は、想像以上に過酷なものだった。

田坂会長:授業との両立はどうしていたのですか?

冨高氏:前期は基本的に来られる時は大学に通って、合宿がある時は別の課題をいただいたりしていました。後期はほとんど遠征で日本にいないことが多くて。でもちょうどコロナ禍でオンライン授業になったのは、ある意味運が良かったです。

田坂会長:コロナ禍で海外遠征をしていたのですか?

冨高氏:はい。検査体制も厳しくて、毎日朝晩検査をして。北京オリンピックの時は特に厳しくて、絶対にかかれないという重圧もありました。10月のスイスから2月のオリンピックまで、日本に帰ったのは年末の3日間だけ。それもホテル隔離でした。

田坂会長:ちょっとホームシックになりますよね。

冨高氏:厳しかったです。日本食も食べたいし、家に帰って荷物も整理したいし(笑)。

多摩大学での学びが活きた瞬間

田坂会長:大学で学んだことで、競技生活に活きていることはありますか?

冨高氏:私、元々人前に立って喋ることがすごく苦手で。1対1なら話せるのですけど、大勢の前で話すのが本当に苦手でした。でも多摩大学ではプレゼンの機会が多くて、自分でパワーポイントを作って発表することも多かったのです。おかげで、オリンピック後の講演会では震えずに話せるようになりました。大学でやっていたから、だいぶできるようになったと思います。

田坂会長:中村その子先生のゼミでマーケティングを学んでいたのですね。

冨高氏:はい。スポンサーを見つけたりする際の自己マーケティングについても教えていただきました。今はSNSもありますし、自分でちゃんと発信していかないといけないので、とても役立っています。

限られた大学生活の楽しみ

田坂会長:同級生との関係はどうでしたか?

冨高氏:最初は一目置かれるというか、どう接していいか分からない感じもあったと思うんですけど、普通に「頑張ってきてね」と応援してくれて。学校が終わったら一緒に遊んだりもしていました。

オンラインより対面授業の時の方が楽しかったです。空きコマに友達と話すとか、早めに来て一緒に過ごす時間が本当に楽しくて。限られた時間だったからこそ、その楽しみがあったから4年間通えたし、モーグルも頑張れたと思います。

オリンピックという特別な舞台

田坂会長:北京が初めてのオリンピックだったのですよね。他の大会と雰囲気は違いましたか?

冨高氏:全く別物です!みんなそう言っていたのですけど「言ってもワールドカップと同じでしょ」と思っていました。でも会場の空気感が全然違って、景色も違って見えるというか。みんな緊張が伝わってくるのです。

プレッシャーもありました。4年に一度しかなくて、人数も限られている中で、失敗もできない。出るからには良い成績を残したいという思いもあって、いろんなプレッシャーがありました。

競技を支える環境と課題

現在、冨高さんは日本スキー連盟(SAJ)のSランク選手として、遠征費用の全額負担を受けている。しかし、この環境は簡単に手に入るものではない。

冨高氏:Sランクは日本のモーグルで3人しかいません。年間ランキング6位以内か、世界選手権のメダルのどちらかを取らないとSランクになれないのです。

田坂会長:ランクが下がると半額負担になるのですか?

冨高氏:そうなのです。だから頑張らないと。試合に出たくてもお金が出せないから出られないという選手もいます。

モーグル自体、知名度はあると思うのですけど競技人口が多くないので、スポンサーを見つけるのも大変です。高校や大学のタイミングで辞める選手が多いのも、そういう理由があります。

繊細さと大胆さの共存

田坂会長:自分を一言で表現するとどんな人ですか?

冨高氏:すごく小さいことでも気にしすぎちゃう、繊細なタイプです。試合の時はルーティンを決めていて、着る服も全部決まっているのです。それを一つでも忘れると「やばい、今日ダメかもしれない」って思っちゃう。でも実際滑ってみると、全然関係なかったりするのですけど(笑)。

田坂会長:繊細さと大胆さを持ち合わせているのですね。緊張しやすいのに結果を出せるのはすごい。

冨高氏:全試合ド緊張です!でも、その繊細さがあるから細かいところまで気を配れるのかもしれません。

ミラノ・コルティナへの決意

田坂会長:今後の目標を教えてください。

冨高氏:一番は来年のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得です。前回は初めてのオリンピックだったので「まずは楽しもう」という気持ちもありましたが、次は違います。北京での経験を活かして、必ずメダルを取りたいです。

田坂会長:俺も応援に行こうかな。ミラノなら観光もできるし(笑)。

冨高氏:ぜひ来てください!詳しい情報は後でお伝えします。

後輩たちへのメッセージ

田坂会長:最後に、在学生やこれから多摩大学に入学する学生にメッセージをお願いします。

冨高氏:私は高校まで、モーグルができる環境で「いかに休めるか」で選んでいました。でも多摩大学に入って、ゼミや授業を通していろんなカテゴリーを学べました。

今やりたいことがないとか、将来のことが決まっていなくても、多摩大学に入ってからいろんな機会があると思います。いろいろ試して、やりたいことを見つけてほしいなと思います。


冨高日向子氏 プロフィール】
経営情報学部31期生(2019年入学)。中村その子ゼミ所属。3歳からスキーを始め、小学生でモーグル競技を開始。白馬村スキークラブを経て、2018年全日本スキー選手権優勝。2022年北京冬季オリンピック出場、2025年3月スイス世界選手権で銀メダル獲得。在学中は競技と学業を両立し、マーケティングやプレゼンテーション能力を習得。現在は日本スキー連盟強化指定選手Sランクとして世界を転戦しながら、2026年ミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指している。

【編集後記】 インタビューを通じて印象的だったのは、冨高さんの「繊細さ」と「挑戦心」のバランスだ。試合前のルーティンを一つ忘れただけで不安になるという繊細さを持ちながら、世界の舞台で戦い続ける強さ。コロナ禍という困難な状況でも、オンライン授業を活用して学業と競技を両立させた柔軟性。そして何より、競技を通じて「モーグルを広めたい」という使命感を持ち続ける姿勢に、多摩大学が育む真のイノベーター精神を見た。来年のミラノ・コルティナオリンピックでの活躍を、同窓生一同、心から応援している。

インタビュー実施日:2025年8月
編集:経営情報学部11期生・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.2

「失敗を恐れずに挑戦し続ける」多摩大学が育てた起業家魂

ノートパソコンを使っている男性

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多摩大学の卒業生インタビュー第2弾。今回は、デジタルメディアとマーケティングを事業展開する株式会社ブレイク・フィールド社を率いる井田正幸氏にご登場いただき田坂正樹同窓会会長との対談をいたしました。多摩大学3期生として、野田一夫学長の薫陶を受け、ベンチャーキャピタルからシリコンバレー、そして起業へと挑戦を続ける井田氏。「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という野田学長の教えを胸に、英語も話せないままシリコンバレーに飛び込んだエピソードなど、現役学生や若手卒業生に勇気を与える熱いメッセージをいただきました。

※対談場所に千代田区一番町の株式会社ブレイク・フィールド社オフィスをお借りしました。


シリコンバレーで通訳も英語も話せないのに飛び込んだ男

田坂会長:今日はお忙しい中、ありがとうございます。井田さんとは本当に同じ学年で、毎日一緒にいた仲ですからね。懐かしい話もたくさん出てくると思います。

井田氏:こちらこそ。田坂さんには会社立ち上げ後、十数年も非常勤役員をやってもらって、本当にお世話になりました。

——(まずは学生時代の話から聞かせてください。お二人がキャンパスで知り合ったきっかけは?)

井田氏:あの頃、我々は3期生だったから、学年全体でもそんなに人数がいなくて、みんな顔見知りで繋がっていましたね。その中でも20人ぐらいのメンバーがグループになって、アリーナの階段に座って、いつもダベってる感じでした(笑)。

田坂会長:オールラウンドサークルっていう、まあ要するにいろんなこと楽しむサークルでしたね。

井田氏:いろんなことやりましたね(笑)。私は他にもテニスサークルにもちょっとだけ入ってました。でも3、4年はゼミ活動が中心で、柳孝一先生のゼミでしたね。

人, 屋内, 男, コンピュータ が含まれている画像

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井田正幸氏

野村総合研究所の部長だった柳先生から直接学べる贅沢

田坂会長:柳ゼミは本当に活発だったよね。

井田氏:今振り返ると、野田学長が作ったベンチャー企業に入ったようなものだったと思います。野田さんが作ったベンチャー企業で、今見ると結構メガベンチャーだったんじゃないかと。有名な先生をたくさん集めて。

田坂会長:確かに普通の企業で考えたら、1年目の若手が部長と直接話すとか、そこで直接育てられるなんてないですもんね。

井田氏:そうそう。柳先生は野村総研の部長で、ビジネス力もあるし人格的にも素晴らしい方でした。いろんな所に連れて行ってくださって、例えば大企業の中間管理職向けの企業セミナー、あれたぶん一人何十万円もするようなプログラムに参加させてもらったり。

田坂会長:大手ビールメーカーに実際に自分たちで作った提案をしに行ったりもしてたよね。

井田氏:ビールメーカーの戦略を、わざわざビールメーカーの人たちのところに行って提案させてもらったり。ニュービジネス協議会のイベントに参加させてもらったりとか。本当に実践的な学びの場でした。

窓の前に立っている男性

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田坂正樹同窓会会長

「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」

田坂会長:そもそも多摩大学を選んだきっかけは?

井田氏:実は浪人していて、父親が「この子このままじゃ駄目になる」と思ったんでしょうね。そっと「こんな大学あるよ」ってパンフレットを置いていったんです。新しい大学で面白い大学だということを父親は分かっていたようで。

田坂会長:卒業後はベンチャーキャピタルに就職されたんですよね。なぜベンチャーキャピタルを?

井田氏:多摩大で学んだことの一つが、生き方には「イノベーターとして生きる」「フォロワーとして生きる」「トラディショナルとして生きる」という3つがあって、どれが良い悪いじゃない。でも野田学長はイノベーターとして生きる素晴らしさを説いていて、そこにすごく惹かれたんです。

田坂会長:でも新卒でベンチャーキャピタルに入るのも珍しかったでしょう?

井田氏:最初は書類選考で落とされたんですよ。でも「もう一度受けさせて欲しい」と連絡して。

田坂会長:すごいですね!それは落とされてすぐに?

井田氏:はい。野田学長の口癖が「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」だったんです。今見ると成功した人たちってみんな嬉しそうに失敗を語るじゃないですか。その精神が身についていたんでしょうね。

「見ておかないと後悔する」シリコンバレーでの挑戦

田坂会長:その後シリコンバレーに行かれたんですよね。

井田氏:CSKのベンチャーキャピタルで働いている時、私は国内投資担当でしたが、会社の投資の半分はシリコンバレー投資でした。国内投資、海外投資と同じ会議で行われており、海外投資のダイナミックな案件に大変興味を持ちました。また、当時のベンチャーキャピタルの経営者が「とにかくシリコンバレーはすごいから絶対に見た方がいい」というのが口癖で。それで向こうにインターン的な形で行ったんです。

田坂会長:3年目くらいでしょ?仕事もやっとできるかなくらいの時期に、よく行ったなと思って。

井田氏:英語は全く喋れませんでした(笑)。

田坂会長:度胸あるよね!

井田氏:向こうのビジネスインキュベーション施設に入って、世界各国から来た50社くらいの会社と一緒でした。私はただのタダ働きだったんですけど、インキュベーターの社長に「アジアから来た案件の商談に同席させてくれ」と言って。そのインキュベーター施設は、シリコンバレーでも有名で、日本をはじめ、世界から、ビジネスパーソンが、毎日のように視察に来られていました。

田坂会長:視察にこられた人から見ると、「こいつすげえ奴だ」って思われたでしょうね。

井田氏:そうなんです。ただのインターンなのに商談に同席してるから、インキュベーターの社員に見えたのでしょうね。大体終わると、日本人のビジネスパーソンからは、ランチに誘われて、情報を取ろうとされるんですよ。そのランチを通して、日本の大手総合研究所からスポンサーシップを取ったら、急にみんな温かくなって(笑)。

スーツを着て椅子に座っている男性

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四谷の小料理屋で説教された思い出

田坂会長:帰国後はすぐに起業されたんですか?

井田氏:最初は全然立ち上がらなかったですよ。インキュベーターとか言って、ベンチャー企業を支援しようとしてやったんですけど、私が一番支援が必要でした(笑)。

田坂会長:その頃、僕も非常勤役員として関わり始めたんだよね。

井田氏:そういえば、起業して2、3年目くらいの時でしたっけ。四谷の小料理屋である方にすごい説教されたこともありましたね。お互いにそれが悔しくて。田坂さんと二人で赤坂のホテルの高層階のお店に行って、「いつも踏みつけられているから、高いところに行って景色を見よう」って言ったんです。

田坂会長:そうそう!でも実際は俺らも青息吐息で(笑)。今は四谷に住んでるから、たまにあの小料理屋近辺通ると「あ、ここで説教されたな」って思い出すね(笑)。

約800万人が利用するメディアへと成長

田坂会長:今のブレイク・フィールド社の事業について教えてください。

井田氏:メディア事業では「ファイナンシャルフィールド」が、多い月では約800万人くらいの人が来るメディアになっています。暮らしとお金の課題を解決するメディアですが、このノウハウを使って違うジャンルでも、人々の課題を解決するメディアを作っていきたいと思っています。

田坂会長:海外展開もされているんですよね?

井田氏:ベトナムとタイで約10年やっています。ベトナムでは医療保険の比較サイト、タイではクレジットカードやパーソナルローンの比較サイトをやりながらデジタルマーケティングを展開しています。

田坂会長:アジア市場は本当に大きいですよね。

井田氏:インドまで含めると20億人近い人たちが、これから金融商品を自分たちで選択していきますから。そこは、弊社が日本で行ってきたビジネスなので、アジアでも我々が役立てるんじゃないかなと。より外貨を稼げる会社になっていきたいと思っています。

ビールの瓶

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同窓会への期待:学生に実践的な体験ができる機会を

田坂会長:最後に、同窓会に期待することはありますか?

井田氏:私が学生の時にいろんな経験をさせてもらって、それが人生にすごく役立ちました。だから今の学生にもそういう体験ができる機会を作れればいいなと思います。多摩大学は、実学との連携が1つの特徴だと思いますので、教授陣のネットワークや、OBのネットワークで、実社会で活躍されている方の講演を聞いたり、交流する場が、よりあれば素晴らしいと思います。

田坂会長:確かに。多摩大出身でコンサルタントとして活躍している人も多いし、執行役員もいるって聞きました。

井田氏:多摩大学も30年経つといろんな人が出てきますね。教授陣、OBを含めたつながりが、現役の学生さんに、新しい価値を提供できると、良いかもしれませんね。

スーツを着た男性たち

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【井田正幸氏 プロフィール】
経営情報学部3期生(1991年入学)。大学卒業後CSKグループ(現・SCSK株式会社)のCSKベンチャーキャピタルにて投資開発・投資審査を担当(IT分野)。同社を退社後、米国SanJose,International Business Incubatorにてインターン。帰国後の1998年IDAビジネスインキューベーターを設立。2000年ブレイク・フィールド社を設立。現在、同社代表取締役就任。現在に至る


【編集後記】 井田氏のインタビューを通じて感じたのは、多摩大学で培われた「挑戦する精神」の強さだ。英語も話せないのにシリコンバレーに飛び込み、失敗を恐れずに起業し、今やアジア展開まで果たしている。野田一夫初代学長の「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という言葉は、まさに井田氏の人生そのものを表している。同窓生として、また現役学生として、この精神を受け継いでいきたい。

インタビュー実施日:2025年7月
編集:経営情報学部11期生・埜口輝之助(同窓会理事)