同窓生連載インタビュー vol.5

多摩大学から研究者・教育者への道 (前編)

〜二人の卒業生が語る学びと挑戦の軌跡〜

多摩大学の卒業生から、今や大学教員として教壇に立つ二人の先生をお迎えし、特別対談を実現しました。小樽商科大学教授の内田純一氏(3期生)と、多摩大学准教授の新西誠人氏(6期生)。技術者から研究者へ、そして教育者へと歩みを進めた二人が、多摩大学での学びと、その後の挑戦について語ります。聞き手は同窓会の鍋田修彦理事・副会長(7期生)です。

多摩大学との出会い、それぞれの原点

鍋田理事: お二人の多摩大学入学のきっかけから教えてください。

内田氏: 実は私、二次募集での入学なのです。3月の終わりぐらいに、二次募集をやっていた都内の大学から選びました。

新西氏: 私は中学生の頃から父親が取っていた日経ビジネスを読むのが好きで愛読していました。それと、母が野田一夫先生のファンで、大学で観光事業研究会みたいな会に入っていて野田先生のことを知っていたのです。「こんな大学あるよ」と勧めてくれて。立教じゃなくて多摩大を勧めてくれたのが運命的でした。経営の勉強がしたくて多摩大学がいいなと決めました。

内田 純一氏

鍋田理事: ゼミはどちらでしたか?

内田氏: 柳孝一先生のゼミです。野村総研出身の先生で、ベンチャーや流通の専門でもあったので、その辺りに興味があって。起業とかベンチャーの話も聞きたかったし、システムとコンサルという野村総研の二本柱の話も興味深かった。実は稼いでいるのはシステムだっていう話とか。

新西氏: 私は彩藤ひろみ先生(齋藤裕美先生。同姓同名の先生がいたため、2007年より学名として彩藤ひろみとしています)と出原至道先生、両方です。単位は1個しかくれなかったのですけど(笑)。

意外な発見、情報系への目覚め

鍋田理事: 入学してからの学生生活はいかがでしたか?

内田氏: 面白い講義が多くて結構真面目に勉強していました。経営系はもちろん情報系も。

新西氏: 経営をやりたいと思って入ったのに、経営系の成績が軒並み悪くて(笑)。すごく悪くて、全く勉強してないはずの情報系の成績がめちゃくちゃ良かったのです。「俺、選択間違っているよな」って思いました。論理的な思考が情報系には向いていたのでしょうね。字が下手だったのでキーボード入力は凄く良くて、絵も描けないので3Dだったら絵が描けるということで、彩藤ひろみ先生のCGの授業にハマりました。95年ぐらいから商用インターネットが始まって、PC-98から多摩大学ではMacに移行していく時代でした。

内田氏: 井上伸雄先生の情報通信論の授業や今泉忠先生のデータ解析の授業のことが印象に残っています。

新西氏: 彩藤先生からCGのアプリケーション側を学んで、出原先生からはCGがどうやって作られるのかという原理を学びました。出原先生はまだ助手で、東大の加藤先生とかも非常勤で来られていて、本当に豪華な教授陣でした。

新西 誠人氏

エンジニアとしてのキャリアスタート

鍋田理事: 卒業後のキャリアについて教えてください。

内田氏: アフラックに就職して、最初の3年間はネットワークエンジニアでした。本当はシステム部門になるだろうと思って就職したのですけど、予想通りシステム部門配属で。ちょうどクライアントサーバーへの切り替え時期で、それまでのダムターミナルをパソコン化して、同軸ケーブルを全部LANに変えて、全国の支社を回っていました。当時は1995年。会社にまだインターネットが入っていなかったので、それを導入する仕事もしていました。

鍋田理事: 多摩大学で学んだ知識はどれくらい役立ちましたか?

内田氏: 実は配属に多摩大学が関係していたのです。電気通信大学出身の上司がいて、「多摩大といえば井上伸雄先生だな」と言って、ネットワークチームに入れてくれたんです。その意味では、希望が叶ったのは多摩大学のおかげでした。ただ、実際にはそんなに実力があったわけじゃないので、必死で1年目は勉強しました。ネットワークスペシャリストの試験とか受けに行ったりとか。

新西氏: 私はSFC(慶應義塾大学大学院)に進学しました。彩藤ひろみ先生がSFCでも講師をされていて、「推薦してあげるよ」と軽く言われたので「お願いします」みたいな(笑)。3DCGのソフトウェアをもっとみんなが使えるようにならないかということを研究していました。

鍋田 修彦 同窓会理事・副会長

大学院からNTT研究所へ

鍋田理事: 新西さんはその後、NTTの研究所に入られたのですね。

新西氏: はい。研究所として自由度が高いという話を聞いていて、いろいろ自由にやらせてくれるのだなと思って。実はNTTから奨学金もいただいていたのです。

鍋田理事: 研究所では何を研究されていたのですか?

新西氏: 非接触ICカード、今のSuicaみたいなものの通信距離を伸ばす研究です。ガチ物理学の世界で、電磁気学とか、ビオサバールの法則とか(笑)。忘れていたことをやり直して、シミュレーションしまくるみたいな。でもNTTの研究所って、いろいろ研究は出るのですけど、それが事業に結びつかないという課題があって。しかも私が行った部署は、なぜかそこだけみんなスーツを着ているという感じでした(笑)。

北海道での転機と大学院進学

鍋田理事: 内田さんは札幌に転勤されたのですよね。

内田氏: 1998年1月1日付けで北海道に転勤しました。大手都市銀行の拓銀(北海道拓殖銀行)が経営破綻した次の年で、山一證券も同時に破綻して、本当に大変な時期でした。向こうに行ったら拓銀の後始末みたいな仕事もありました。でも、そこで転機が訪れたんです。働きながら北海道大学の大学院に通うことにしたのです。

鍋田理事: 働きながらの大学院は大変だったでしょう。

内田氏: 夜対応してくれる先生を見つけて授業を取って。正規の夜間開講じゃないのですよ。ちょうど大学院重点化という時期で、北大も全部の学部を重点化しないと研究大学として認められないという状況でした。今まで4、5人しか入ってなかったところに、50、60人入っちゃったのです。私はちゃんと勉強して入試を突破しようと思っていたのだけど、門戸がいきなり開いちゃって、なんか損した気分でした(笑)。でもその分、いろんな人がいて楽しかった。経営者みたいな人も入ってきたし、2代目経営者みたいな人も同級生にいました。

リコーへの転職と博士課程への挑戦

鍋田理事: 新西さんはNTTから転職されたんですね。

新西氏: 3年半でリコーに転職しました。SFCの先輩から「リコーで人を求めているのだけどどう?」ってメールが来て、5分後に「行きます」って返信しました(笑)。

鍋田理事: 5分ですか!

新西氏: スーツの職場が嫌だったのと、NTTではプログラミング禁止令が出ていて。プログラミングするのは子会社の人たちの役割だから、お前はプログラミングできるかもしれないけど絶対やるなって言われて。リコーでは自分でどんどんやっていけたので楽しかったです。机型の会議装置を作って、会議を支援できるようなものを開発していました。

6年9ヶ月の博士課程

鍋田理事: 博士号取得までの道のりを教えてください。

新西氏: リコーが大学院のスポンサーになってくれて、東京工業大学(現・東京科学大学)の技術経営(MOT)の博士課程に進みました。6年9ヶ月在籍しました。最大9年まで在籍できるのですけど、途中で満期退学して論文博士を取る道もあったのですが、それだとあまり行かなくなるだろうと思って、ずっと学費を払い続けました。

鍋田理事: その間のストレスは相当だったでしょう。

新西氏: 夜中3時、4時まで論文を書いたり読んだりして、朝普通に会社に行く生活で、すごく寝不足でした。頭を活性化させるために、会社の下のファミリーマートでふらふらと甘いものを買って食べる生活で、どんどん太っていきました。家族旅行に行きたいと言われても「無理」って断ったりして。妻から「いつ取るの」「もう諦めたら」とか言われて、逆にやる気を出すという(笑)。

研究者から教育者へ

鍋田理事: 内田さんはどのように教員になられたのですか?

内田氏: 修士号を取ったあとに北大の助手になったのですが、在職しながら論文博士を取りました。

鍋田理事: それはそれで大変だったでしょう。

内田氏: その後、籍を置いていた大学院に観光学の専攻を増設する準備をすることになった際にも多摩大の知識が活きました。実は多摩大学で観光関連の科目をたくさん取っていたのです。野田一夫学長(当時)がレストランホテル学科を増設しようとしていて、フードサービス論とかホテル経営論とかレジャー産業論とか、ニューオフィス論とか。その知識があったので、観光研究者や実務家のネットワークみたいなものがなんとなく分かっていました。文科省の大学設置審査委員会に増設が認可され、私はその新専攻に移籍して准教授になりました。その意味では、ずっと多摩大学の時の知識を切り売りして生きているのですよ(笑)。

母校への帰還

鍋田理事: 新西さんは多摩大学の教員になられましたが、どのような経緯で?

新西氏: リコーの上司に「ここにいても絶対偉くならないから、どこか行った方がいい」と言われて追い出されました(笑)。JREC-INという公募サイトで、ユーザーインターフェースとか人間中心設計、デザイン思考とか、まさに自分がやってきたことの募集を見つけて。どこの大学かなと思ったら、多摩大学!?って。
JREC-IN:国立研究開発法人科学技術振興機構が運営する、研究人材のためのキャリア支援ポータルサイト

鍋田理事: 直接声がかかったわけではなかったのですね。

新西氏: みんなそう思うのですけど、公募です。彩藤先生にFacebookでメッセージを送って「多摩大の公募を出そうと思うのですけど、どう思います?」って聞いたら「出せば?」で終わり。意外とドライでしたね(笑)。

鍋田理事: そして母校に戻られた。感慨深いものがあったでしょう。

新西氏: 学生だった場所で教員として戻ってくると、見える景色が全然違いますね。立場が違う、教わる立場と教える立場でこんなにも違うんだなと。

多摩キャンパス 101号室にて


後編では、対談の途中で偶然通りかかった杉田文章副学長も加わり、現在の教育活動や学生への思い、そして多摩大学の教育の未来について、より深い議論が展開されます。教育者として今何を感じ、どのような思いで学生と向き合っているのか。また、社会人が大学院で学ぶ意義や、同窓会への期待についても語っていただきました。

<後編は10月20日に掲載予定です>

【内田純一氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部3期生(1991年入学)
小樽商科大学大学院商学研究科アントレプレナーシップ専攻(専門職大学院)教授・博士(国際広報メディア)
大学卒業後、Aflac日本社(現アフラック生命保険株式会社)勤務。この間に北海道大学大学院経済学研究科修士(経営学)課程修了。2002年より大学に転じ、北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院准教授等を経て2017年より現職。

【新西誠人氏プロフィール】
多摩大学経営情報学部6期生(1994年入学)
多摩大学経営情報学部経営情報学科 准教授・博士(技術経営)
大学卒業後、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。東京工業大学大学院(現・東京科学大学大学院)イノベーションマネジメント研究科博士後期課程修了。日本電信電話株式会社(NTTサイバースペース研究所)、株式会社リコー(リコー経済社会研究所)を経て2022年4月より現職。

同窓生連載インタビュー vol.4

人生観を変えるために挑戦し続けた起業家が熟成スイーツで勝負する理由

多摩大学の卒業生インタビュー第4弾。今回は、IT事業からタイでの飲食事業、そして熟成スイーツ事業へと次々に新しい挑戦を続ける株式会社ビースリー代表の田和充久氏にご登場いただきました。大学時代は「ほとんど授業に出なかった」と笑いながら語る田和氏。しかし、ボランティア、スカイダイビング、バイクでの日本一周、フィリピンの電気も通っていない村でのホームステイなど、「人生観を変える」ための挑戦を4年間続けた経験が、現在の事業家としての原動力になっています。森公美子さんも絶賛する熟成チーズケーキの開発秘話から、若い世代へのメッセージまで、熱く語っていただきました。

※対談場所は田和氏が営む大田区のチーズケーキ工場をお借りしました。


締め切り前日に決めた多摩大学への進学

田坂会長:今日はチーズケーキ工場に寄らせていただいてありがとうございます。普段から工場には?

田和氏:注文が入りすぎてどうしても人手が足りない時、週に1回か2回ぐらいは入ったりしています。

田坂会長:まずは学生時代の話から。どういう経緯で多摩大学に入ったの?

田和氏:正直に言うと、高校は進学校に通っていたもののまったく勉強しないで落ちこぼれて。でも大学に行くのは当たり前みたいな環境だったので、浪人していて。実は最初、他の大学に受かってそこに行く気満々だったのです。

田坂会長:えっ、そうだったの?

田和氏:そうそう。でも多摩大学の合格が後から来て。当時は携帯電話とかないので、連絡も取らずに海外に遊びに行っちゃっていて。親が「締め切りあるよ」って。ちょうど運良く前日ぐらいに家に帰って、親も「多摩大学、面白そうらしいよ」って言っていて。実家が東京の国立市だったので、一番近いしいいんじゃない?みたいな感じで決めました。

月1〜2回しか大学に行かなかった学生時代

田坂会長:大学時代の思い出は?

田和氏:本当に僕は大学に行ってなかったのですよ。月1回とか2回とかそんなレベル。でも今でも連絡取る人って、やっぱり面白い人間が多くて。多摩大学って「なり上がろう」じゃないけど、何か面白いことやろうみたいな人間と、ちょっとテンション落ちているような人間に結構分かれていたと思います。

田坂会長:授業にも出ないで何していたの??

田和氏:誰かが取っている授業のノートをコピーしてもらっていました。300円とか入れて「もう一部お願いします」って(笑)。みんないい人が多かったから、「分かりました」って2部コピーするのを3部にしてもらって。

人生観を変えるための4年間

田坂会長:学校に来てないときは何を?バイト?

田和氏:バイトもしてなくて、パチンコとかマージャンとか。でも大学生っていう4年間の中で、「人生観を変える」っていうのはどんなことだろうって結構考えていて。芸能人が「人生観がガラッと変わりました」とか言うじゃないですか。そんな変わることってあるんだって。

田坂会長:それで?

田和氏:人が「人生観が変わった」って言ったことを全部やってみようと思って。ボランティアやったら人生観が変わったって聞いたら老人ホームに行って、スカイダイビングしたら変わったって聞いたらやってみて、オーロラ見たら変わったって聞いたらアラスカ行って、日本一周したら変わったって聞いたらバイクで一周して。

田坂会長:すごい行動力だね。

田和氏:治験のバイトとかして何十万とかもらって、それを持ってオーロラ見に行ったり。実家に住まわせてもらっていたから、お金が出ていくことがなかったので。

フィリピンの電気も通ってない村でのホームステイ

田和氏:ホームステイがしたいって先輩に言ったら、「すごいホームステイ」を紹介してくれて。行ってみたらフィリピンの山奥の電気の通ってない村で。

田坂会長:えっ?

田和氏:タガログ語さえ通じない村だったのです。でも人間ってそこにいると本当にウルルン(※)みたいな感じで、だんだん現地語が分かってくるのですよ。「こんな現地語がわかってきて、俺はどうなるのだろう」と思いながら(笑)。でも帰る時は本当に感動して。
(※「世界ウルルン滞在記」1995-2007にTBS系列で放送された世界ホームステイドキュメンタリー番組)

田坂会長:それ、「すごい」の意味を勘違いしたんじゃない??

田和氏:そう!僕は「すごくいいホームステイがしたい」って言ったつもりだったのに、「すごいホームステイ」を紹介されたらしくて(笑)。でも若いからこそできる経験でしたね。

卒業1週間前に就職が決まる

田坂会長:大学卒業後は?

田和氏:留年していたので、卒業の1週間前まで就職活動してなくて。いきなり就職浪人になってしまうので、「人生ヤバくない?」みたいな。それでクイックという東証一部上場(現・東証プライム上場)の人材企業の新卒を受けに行ったら、社長が「面白いな、そんな奴がいるのか」って。「今中途採用しているから中途採用受けろ」って言われて、来週から来なさいみたいな。

田坂会長:5月後半ぐらい?

田和氏:そう、3月卒業して5月ぐらい。最初はアルバイトみたいな感じで、人材広告の営業をやっていました。

エキサイト株式会社からの独立、そしてタイへ

田坂会長:その後エキサイトに?

田和氏:28歳までだったら新しい場所に行けるんじゃないかと思って。エキサイトはインターネットのポータルサイトの会社で、いわばメーカーみたいなものなので、自分でルールを決められる。営業で3、4年やって、その後エキサイトブログとかの提携の責任者をやって、2007年に独立しました。

田坂会長:独立して何を?

田和氏:最初はIT関係の代理店とか、逆SEO(風評被害の元となるネガティブな情報を含むWebページの検索結果順位を下げるための施策)とか。でも「海外で勝負したい」と思って、ベトナムとかタイとか見て回って、最終的にタイでジンギスカン屋を始めました。

田坂会長:なぜにジンギスカンを?

田和氏:人に頼らないモデルがいいと思って。フランチャイズは面白くないし、じゃあお客さんが調理するモデルがいいだろうと。ジンギスカンなら仕込みと仕入れができればいいのではいかと。

コロナ禍で熟成スイーツへ転換

田坂会長:今は?

田和氏:タイでジンギスカン屋とベーカリーカフェの2店舗やってたいたのですが、コロナで大変なことになって。タイでは補助金まったく出ないし、お金も一切貸してくれない。それで新規事業としてスイーツを始めました。

田坂会長:なぜにまたスイーツを?

田和氏:スイーツが一番再現性あると思って。レシピ通り作れば味が安定する。うちは一つに絞ることで、日本全国に「それだけは食べたい人」がいるんじゃないかという考え方で、チーズケーキとガトーショコラに絞っています。

(田和氏が経営されている「完全グルテンフリー専門 熟成バスクチーズケーキ」)

熟成技術へのこだわり

田坂会長:熟成スイーツの特徴は?

田和氏:チーズケーキはグルテンフリーで、粉を入れていないのです。普通は粉を入れるとねっとり感が出るけど、ザラつくんですよね。うちは特別な熟成をすることで、ねっとり感を増して滑らかさを追求しています。

田坂会長:熟成って難しくない??

田和氏:熟成って基本的にスイーツ業界では敬遠されているのです。熟成、発酵、腐敗って紙一重で、腐敗の一歩手前が美味しいケースもある。うちはタンパク質を酵素が分解してアミノ酸に変化させることを熟成と定義していて、グルタミン酸が1.8倍増えてます。

大御所ミュージカル歌手も絶賛

田坂会長:この前、新宿の伊勢丹本店でも販売してましたよね?

田和氏:はい。実はミュージカル歌手の森公美子さんには、僕が普通に事務所に50行ぐらいの熱いメールを送って「無料で送るので食べてください」って。最初は「お断りします」って来たのですけど、事務所の社長が「熱い思いを感じたので森には伝えておきます」って。2週間後に「森公美子」って注文が入って、その後フジテレビの番組で紹介してもらいました。

「やれない理由」を探すより動くこと

田坂会長:すごい行動力だね(笑)

田和氏:動けば何かが起こるっていうのはすごく感じていますね。多摩大の学生にも伝えたいのですが、やれない理由を見つけるよりは、やってみて、どう先に行けるかっていう方が大事。やれない理由なんていくらでも出てくるので。

田坂会長:伊勢丹では完売したようで!

田和氏:はい。でも正直、最初は50個って言われて。「いらっしゃいませ」ってダイソーで買ったアクリルパネルつけて立っていましたよ(笑)。恥ずかしいけど、売れた方がいいので。

養護施設への寄付活動

田坂会長:不揃いになってしまったチーズケーキを養護施設に送っているんだって??

田和氏:10個貯まるたびに施設に送っています。児童養護施設って大体50人いることが多くて、10個あれば児童全員と職員の人、みんなで食べられる。誕生日会とかできるので。冷凍だからいつでも食べられるし、お礼状もたくさんいただいています。

同窓会への期待

田坂会長:最後に、同窓会に期待することは?

田和氏:「多摩大学卒業です!」と言いたくなるような学校になってほしいですね。無名だからこそ、絆が強いならすごくいい。東大の人は「どこの大学ですか?」って聞かないらしいんですよ。自分が一番いい大学だから、他の人に聞くと失礼にあたるって。悪い大学の人間は恥ずかしいから言わない。その両極端があるらしくて。

田坂会長:なるほど。

田和氏:多摩大学がもっと違う形で何かうまくつながると、小さいとか弱小とかじゃなくて、何か違うものが出るんだったらいい。忘れ去りたいみたいなんじゃなくて、思い出になるような。


【田和 充久氏 プロフィール】
経営情報学部3期生(1991年入学)。卒業後、株式会社クイックを経て1999年エキサイト株式会社(現・エキサイトホールディングス会社)入社。新規事業責任者として検索エンジンや通信回線事業を手掛ける。2007年に株式会社ビースリーを設立し、WEBマーケティングや海外食品事業を展開。近年は独自開発の熟成バスクチーズケーキのオンライン販売など、新しい領域にも挑戦を続けている。

【編集後記】 田和氏のインタビューを通じて印象的だったのは、「人生観を変える」ために4年間挑戦し続けた姿勢だ。授業にはほとんど出なかったというが、その代わりに得た経験の数々が、現在の事業家としての土台になっている。「やれない理由を探すより、どうやったらやれるか」を考える。この精神は、まさに多摩大学が育てたイノベーター精神そのものではないだろうか。熟成スイーツという新しい分野で挑戦を続ける田和氏の今後に注目したい。

インタビュー実施日:2025年7月 編集:11期・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.3

オリンピアンが語る「繊細さと挑戦」

—— モーグルを広める夢と多摩大学での学び

2022年の北京オリンピックにフリースタイル女子モーグル日本代表として出場し、今年2025年3月にスイスで開催されたワールドカップでは、銀メダルを獲得した冨高日向子氏。多摩大学在学中から世界を転戦し、競技と学業を両立させてきた彼女に、田坂正樹同窓会会長がお話を伺いました。オリンピックという大舞台での経験、そして多摩大学での学びが今の自分にどう活きているのか。来年2026年冬のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指す、若きアスリートの素顔に迫ります。

※多摩大学職員でもある冨高氏、今回の対談場所は職場でもある多摩キャンパスにて行いました

3歳から始まったモーグルへの道

田坂会長:ワールドカップでの銀メダルすごいなと思ったのですけど、どういう経緯でモーグルを始めることになったのですか?

冨高氏:スキー自体は3歳ぐらいから始めていて、親がスキー好きで「一緒に滑れたらいいな」という思いで連れて行ってもらっていました。小学校1、2年生の時に、たまたま入ったスキースクールでコブを滑った時に「すごく楽しい!」と思って。そこでモーグルという競技があることを知り、やりたいと思ったのです。

田坂会長:東京の小学校から、シーズンになるとスキー場に通って練習していたんですね。

冨高氏:最初は軽い気持ちで始めたので、冬になったらスキーに行って、モーグルの草大会に出る程度でした。でも小学校4、5年生から本格的にやるようになって、白馬村スキークラブに所属してからは、夏も冬も毎週白馬に通うようになりました。

田坂会長:夏もあの水に飛び込むやつ?

冨高氏:そうです。白馬は当時すごく強いチームで、上村愛子さんも先輩にいて。その背中を見て「私もいつかああなりたいな」と思いながら頑張っていました。

高校時代の栄光と挫折

2018年、高校2年生の時に全日本スキー選手権で優勝。しかし、その年は平昌オリンピックの選考に落ちるという悔しい経験もした。

冨高氏:ワールドカップを1年回っていたのですけど、基準をクリアできずにオリンピック選考から落ちてしまって。オリンピックを家で見ながら、モチベーションも少し落ちていました。でも全日本は次の4年に向けて大事な試合で、引退する先輩もたくさんいたので、その先輩たちに恥じない滑りをしようという思いで臨みました。

田坂会長:悔しさをバネにしたのですね。

冨高氏:はい。その経験が、次のオリンピックへの原動力になりました。

多摩大学を選んだ理由

田坂会長:モーグルをやりながら多摩大学に入学したきっかけは?

冨高氏:最初は東京を離れることも考えていましたし、そのまま就職している先輩もいました。でも私自身、モーグルを辞めた後に「モーグルという競技を広めたい」という思いがすごくあって。高校の時に多摩大学を教えてもらい、経営や自分から発信する術を学べると聞いて、入りたいなと思いました。

コロナ禍での両立生活

大学生活とトップアスリートとしての活動の両立は、想像以上に過酷なものだった。

田坂会長:授業との両立はどうしていたのですか?

冨高氏:前期は基本的に来られる時は大学に通って、合宿がある時は別の課題をいただいたりしていました。後期はほとんど遠征で日本にいないことが多くて。でもちょうどコロナ禍でオンライン授業になったのは、ある意味運が良かったです。

田坂会長:コロナ禍で海外遠征をしていたのですか?

冨高氏:はい。検査体制も厳しくて、毎日朝晩検査をして。北京オリンピックの時は特に厳しくて、絶対にかかれないという重圧もありました。10月のスイスから2月のオリンピックまで、日本に帰ったのは年末の3日間だけ。それもホテル隔離でした。

田坂会長:ちょっとホームシックになりますよね。

冨高氏:厳しかったです。日本食も食べたいし、家に帰って荷物も整理したいし(笑)。

多摩大学での学びが活きた瞬間

田坂会長:大学で学んだことで、競技生活に活きていることはありますか?

冨高氏:私、元々人前に立って喋ることがすごく苦手で。1対1なら話せるのですけど、大勢の前で話すのが本当に苦手でした。でも多摩大学ではプレゼンの機会が多くて、自分でパワーポイントを作って発表することも多かったのです。おかげで、オリンピック後の講演会では震えずに話せるようになりました。大学でやっていたから、だいぶできるようになったと思います。

田坂会長:中村その子先生のゼミでマーケティングを学んでいたのですね。

冨高氏:はい。スポンサーを見つけたりする際の自己マーケティングについても教えていただきました。今はSNSもありますし、自分でちゃんと発信していかないといけないので、とても役立っています。

限られた大学生活の楽しみ

田坂会長:同級生との関係はどうでしたか?

冨高氏:最初は一目置かれるというか、どう接していいか分からない感じもあったと思うんですけど、普通に「頑張ってきてね」と応援してくれて。学校が終わったら一緒に遊んだりもしていました。

オンラインより対面授業の時の方が楽しかったです。空きコマに友達と話すとか、早めに来て一緒に過ごす時間が本当に楽しくて。限られた時間だったからこそ、その楽しみがあったから4年間通えたし、モーグルも頑張れたと思います。

オリンピックという特別な舞台

田坂会長:北京が初めてのオリンピックだったのですよね。他の大会と雰囲気は違いましたか?

冨高氏:全く別物です!みんなそう言っていたのですけど「言ってもワールドカップと同じでしょ」と思っていました。でも会場の空気感が全然違って、景色も違って見えるというか。みんな緊張が伝わってくるのです。

プレッシャーもありました。4年に一度しかなくて、人数も限られている中で、失敗もできない。出るからには良い成績を残したいという思いもあって、いろんなプレッシャーがありました。

競技を支える環境と課題

現在、冨高さんは日本スキー連盟(SAJ)のSランク選手として、遠征費用の全額負担を受けている。しかし、この環境は簡単に手に入るものではない。

冨高氏:Sランクは日本のモーグルで3人しかいません。年間ランキング6位以内か、世界選手権のメダルのどちらかを取らないとSランクになれないのです。

田坂会長:ランクが下がると半額負担になるのですか?

冨高氏:そうなのです。だから頑張らないと。試合に出たくてもお金が出せないから出られないという選手もいます。

モーグル自体、知名度はあると思うのですけど競技人口が多くないので、スポンサーを見つけるのも大変です。高校や大学のタイミングで辞める選手が多いのも、そういう理由があります。

繊細さと大胆さの共存

田坂会長:自分を一言で表現するとどんな人ですか?

冨高氏:すごく小さいことでも気にしすぎちゃう、繊細なタイプです。試合の時はルーティンを決めていて、着る服も全部決まっているのです。それを一つでも忘れると「やばい、今日ダメかもしれない」って思っちゃう。でも実際滑ってみると、全然関係なかったりするのですけど(笑)。

田坂会長:繊細さと大胆さを持ち合わせているのですね。緊張しやすいのに結果を出せるのはすごい。

冨高氏:全試合ド緊張です!でも、その繊細さがあるから細かいところまで気を配れるのかもしれません。

ミラノ・コルティナへの決意

田坂会長:今後の目標を教えてください。

冨高氏:一番は来年のミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得です。前回は初めてのオリンピックだったので「まずは楽しもう」という気持ちもありましたが、次は違います。北京での経験を活かして、必ずメダルを取りたいです。

田坂会長:俺も応援に行こうかな。ミラノなら観光もできるし(笑)。

冨高氏:ぜひ来てください!詳しい情報は後でお伝えします。

後輩たちへのメッセージ

田坂会長:最後に、在学生やこれから多摩大学に入学する学生にメッセージをお願いします。

冨高氏:私は高校まで、モーグルができる環境で「いかに休めるか」で選んでいました。でも多摩大学に入って、ゼミや授業を通していろんなカテゴリーを学べました。

今やりたいことがないとか、将来のことが決まっていなくても、多摩大学に入ってからいろんな機会があると思います。いろいろ試して、やりたいことを見つけてほしいなと思います。


冨高日向子氏 プロフィール】
経営情報学部31期生(2019年入学)。中村その子ゼミ所属。3歳からスキーを始め、小学生でモーグル競技を開始。白馬村スキークラブを経て、2018年全日本スキー選手権優勝。2022年北京冬季オリンピック出場、2025年3月スイス世界選手権で銀メダル獲得。在学中は競技と学業を両立し、マーケティングやプレゼンテーション能力を習得。現在は日本スキー連盟強化指定選手Sランクとして世界を転戦しながら、2026年ミラノ・コルティナオリンピックでのメダル獲得を目指している。

【編集後記】 インタビューを通じて印象的だったのは、冨高さんの「繊細さ」と「挑戦心」のバランスだ。試合前のルーティンを一つ忘れただけで不安になるという繊細さを持ちながら、世界の舞台で戦い続ける強さ。コロナ禍という困難な状況でも、オンライン授業を活用して学業と競技を両立させた柔軟性。そして何より、競技を通じて「モーグルを広めたい」という使命感を持ち続ける姿勢に、多摩大学が育む真のイノベーター精神を見た。来年のミラノ・コルティナオリンピックでの活躍を、同窓生一同、心から応援している。

(インタビュー実施日:2025年8月 編集:経営情報学部11期・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.2

「失敗を恐れずに挑戦し続ける」多摩大学が育てた起業家魂

ノートパソコンを使っている男性

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多摩大学の卒業生インタビュー第2弾。今回は、デジタルメディアとマーケティングを事業展開する株式会社ブレイク・フィールド社を率いる井田正幸氏にご登場いただき田坂正樹同窓会会長との対談をいたしました。多摩大学3期生として、野田一夫学長の薫陶を受け、ベンチャーキャピタルからシリコンバレー、そして起業へと挑戦を続ける井田氏。「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という野田学長の教えを胸に、英語も話せないままシリコンバレーに飛び込んだエピソードなど、現役学生や若手卒業生に勇気を与える熱いメッセージをいただきました。

※対談場所に千代田区一番町の株式会社ブレイク・フィールド社オフィスをお借りしました。


シリコンバレーで通訳も英語も話せないのに飛び込んだ男

田坂会長:今日はお忙しい中、ありがとうございます。井田さんとは本当に同じ学年で、毎日一緒にいた仲ですからね。懐かしい話もたくさん出てくると思います。

井田氏:こちらこそ。田坂さんには会社立ち上げ後、十数年も非常勤役員をやってもらって、本当にお世話になりました。

——(まずは学生時代の話から聞かせてください。お二人がキャンパスで知り合ったきっかけは?)

井田氏:あの頃、我々は3期生だったから、学年全体でもそんなに人数がいなくて、みんな顔見知りで繋がっていましたね。その中でも20人ぐらいのメンバーがグループになって、アリーナの階段に座って、いつもダベってる感じでした(笑)。

田坂会長:オールラウンドサークルっていう、まあ要するにいろんなこと楽しむサークルでしたね。

井田氏:いろんなことやりましたね(笑)。私は他にもテニスサークルにもちょっとだけ入ってました。でも3、4年はゼミ活動が中心で、柳孝一先生のゼミでしたね。

人, 屋内, 男, コンピュータ が含まれている画像

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井田正幸氏

野村総合研究所の部長だった柳先生から直接学べる贅沢

田坂会長:柳ゼミは本当に活発だったよね。

井田氏:今振り返ると、野田学長が作ったベンチャー企業に入ったようなものだったと思います。野田さんが作ったベンチャー企業で、今見ると結構メガベンチャーだったんじゃないかと。有名な先生をたくさん集めて。

田坂会長:確かに普通の企業で考えたら、1年目の若手が部長と直接話すとか、そこで直接育てられるなんてないですもんね。

井田氏:そうそう。柳先生は野村総研の部長で、ビジネス力もあるし人格的にも素晴らしい方でした。いろんな所に連れて行ってくださって、例えば大企業の中間管理職向けの企業セミナー、あれたぶん一人何十万円もするようなプログラムに参加させてもらったり。

田坂会長:大手ビールメーカーに実際に自分たちで作った提案をしに行ったりもしてたよね。

井田氏:ビールメーカーの戦略を、わざわざビールメーカーの人たちのところに行って提案させてもらったり。ニュービジネス協議会のイベントに参加させてもらったりとか。本当に実践的な学びの場でした。

窓の前に立っている男性

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田坂正樹同窓会会長

「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」

田坂会長:そもそも多摩大学を選んだきっかけは?

井田氏:実は浪人していて、父親が「この子このままじゃ駄目になる」と思ったんでしょうね。そっと「こんな大学あるよ」ってパンフレットを置いていったんです。新しい大学で面白い大学だということを父親は分かっていたようで。

田坂会長:卒業後はベンチャーキャピタルに就職されたんですよね。なぜベンチャーキャピタルを?

井田氏:多摩大で学んだことの一つが、生き方には「イノベーターとして生きる」「フォロワーとして生きる」「トラディショナルとして生きる」という3つがあって、どれが良い悪いじゃない。でも野田学長はイノベーターとして生きる素晴らしさを説いていて、そこにすごく惹かれたんです。

田坂会長:でも新卒でベンチャーキャピタルに入るのも珍しかったでしょう?

井田氏:最初は書類選考で落とされたんですよ。でも「もう一度受けさせて欲しい」と連絡して。

田坂会長:すごいですね!それは落とされてすぐに?

井田氏:はい。野田学長の口癖が「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」だったんです。今見ると成功した人たちってみんな嬉しそうに失敗を語るじゃないですか。その精神が身についていたんでしょうね。

「見ておかないと後悔する」シリコンバレーでの挑戦

田坂会長:その後シリコンバレーに行かれたんですよね。

井田氏:CSKのベンチャーキャピタルで働いている時、私は国内投資担当でしたが、会社の投資の半分はシリコンバレー投資でした。国内投資、海外投資と同じ会議で行われており、海外投資のダイナミックな案件に大変興味を持ちました。また、当時のベンチャーキャピタルの経営者が「とにかくシリコンバレーはすごいから絶対に見た方がいい」というのが口癖で。それで向こうにインターン的な形で行ったんです。

田坂会長:3年目くらいでしょ?仕事もやっとできるかなくらいの時期に、よく行ったなと思って。

井田氏:英語は全く喋れませんでした(笑)。

田坂会長:度胸あるよね!

井田氏:向こうのビジネスインキュベーション施設に入って、世界各国から来た50社くらいの会社と一緒でした。私はただのタダ働きだったんですけど、インキュベーターの社長に「アジアから来た案件の商談に同席させてくれ」と言って。そのインキュベーター施設は、シリコンバレーでも有名で、日本をはじめ、世界から、ビジネスパーソンが、毎日のように視察に来られていました。

田坂会長:視察にこられた人から見ると、「こいつすげえ奴だ」って思われたでしょうね。

井田氏:そうなんです。ただのインターンなのに商談に同席してるから、インキュベーターの社員に見えたのでしょうね。大体終わると、日本人のビジネスパーソンからは、ランチに誘われて、情報を取ろうとされるんですよ。そのランチを通して、日本の大手総合研究所からスポンサーシップを取ったら、急にみんな温かくなって(笑)。

スーツを着て椅子に座っている男性

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四谷の小料理屋で説教された思い出

田坂会長:帰国後はすぐに起業されたんですか?

井田氏:最初は全然立ち上がらなかったですよ。インキュベーターとか言って、ベンチャー企業を支援しようとしてやったんですけど、私が一番支援が必要でした(笑)。

田坂会長:その頃、僕も非常勤役員として関わり始めたんだよね。

井田氏:そういえば、起業して2、3年目くらいの時でしたっけ。四谷の小料理屋である方にすごい説教されたこともありましたね。お互いにそれが悔しくて。田坂さんと二人で赤坂のホテルの高層階のお店に行って、「いつも踏みつけられているから、高いところに行って景色を見よう」って言ったんです。

田坂会長:そうそう!でも実際は俺らも青息吐息で(笑)。今は四谷に住んでるから、たまにあの小料理屋近辺通ると「あ、ここで説教されたな」って思い出すね(笑)。

約800万人が利用するメディアへと成長

田坂会長:今のブレイク・フィールド社の事業について教えてください。

井田氏:メディア事業では「ファイナンシャルフィールド」が、多い月では約800万人くらいの人が来るメディアになっています。暮らしとお金の課題を解決するメディアですが、このノウハウを使って違うジャンルでも、人々の課題を解決するメディアを作っていきたいと思っています。

田坂会長:海外展開もされているんですよね?

井田氏:ベトナムとタイで約10年やっています。ベトナムでは医療保険の比較サイト、タイではクレジットカードやパーソナルローンの比較サイトをやりながらデジタルマーケティングを展開しています。

田坂会長:アジア市場は本当に大きいですよね。

井田氏:インドまで含めると20億人近い人たちが、これから金融商品を自分たちで選択していきますから。そこは、弊社が日本で行ってきたビジネスなので、アジアでも我々が役立てるんじゃないかなと。より外貨を稼げる会社になっていきたいと思っています。

ビールの瓶

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同窓会への期待:学生に実践的な体験ができる機会を

田坂会長:最後に、同窓会に期待することはありますか?

井田氏:私が学生の時にいろんな経験をさせてもらって、それが人生にすごく役立ちました。だから今の学生にもそういう体験ができる機会を作れればいいなと思います。多摩大学は、実学との連携が1つの特徴だと思いますので、教授陣のネットワークや、OBのネットワークで、実社会で活躍されている方の講演を聞いたり、交流する場が、よりあれば素晴らしいと思います。

田坂会長:確かに。多摩大出身でコンサルタントとして活躍している人も多いし、執行役員もいるって聞きました。

井田氏:多摩大学も30年経つといろんな人が出てきますね。教授陣、OBを含めたつながりが、現役の学生さんに、新しい価値を提供できると、良いかもしれませんね。

スーツを着た男性たち

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【井田正幸氏 プロフィール】
経営情報学部3期生(1991年入学)。大学卒業後CSKグループ(現・SCSK株式会社)のCSKベンチャーキャピタルにて投資開発・投資審査を担当(IT分野)。同社を退社後、米国SanJose,International Business Incubatorにてインターン。帰国後の1998年IDAビジネスインキューベーターを設立。2000年ブレイク・フィールド社を設立。現在、同社代表取締役就任。現在に至る


【編集後記】 井田氏のインタビューを通じて感じたのは、多摩大学で培われた「挑戦する精神」の強さだ。英語も話せないのにシリコンバレーに飛び込み、失敗を恐れずに起業し、今やアジア展開まで果たしている。野田一夫初代学長の「成功の反対は失敗じゃなくて何もしないこと」という言葉は、まさに井田氏の人生そのものを表している。同窓生として、また現役学生として、この精神を受け継いでいきたい。
インタビュー実施日:2025年7月 編集:経営情報学部11期・埜口輝之助(同窓会理事)

同窓生連載インタビュー vol.1

上場企業トップ3名が振り返る学生時代と経営の軌跡

多摩大学の卒業生から数多くのビジネスリーダーや起業家が誕生しています。今回は上場企業を率いる卒業生3名による対談が実現しました。進行役は田坂正樹同窓会会長(株式会社ピーバンドットコム 取締役会長ファウンダー。経営情報学部3期生。1991年入学)とともに、青柳史郎氏(グローバルセキュリティエキスパート株式会社 代表取締役社長CEO。経営情報学部6期生。1994年入学)、古俣大介氏(ピクスタ株式会社 代表取締役社長。経営情報学部7期生。1995年入学)が多摩大学での学生生活から現在に至るキャリアパス、そして今後の展望まで、熱く語っていただきました。

※対談場所にグローバルセキュリティエキスパート株式会社オフィスをお借りしました。

多摩大学での学生時代

——(多摩大学時代の思い出や学生生活について教えてください

青柳氏: 私は隣の多摩大学附属聖ヶ丘中学・高等学校の出身です。高校時代から多摩大学のキャンパスをよく知っていました。キャンパスライフという意味では特に新鮮味はなかったですね。附属出身の学生が15人くらいいて、その仲間と過ごすことが多く、他の学生との接点があまりなかったのと、2年生くらいまでは、あまり大学に馴染めなかったですね。

古俣氏: 私は1995年入学で、野田一夫先生のインタビューを見て、面白いなと思って入学しました。正直に言うと、最初の1年間はあまり授業に出席せず、1回目の1年生で留年してしまいました。

しかし、2回目の1年生の夏にイスラエルに1ヶ月ほど滞在する機会があり、そこで人生観が変わりました。現地の大学生と交流して、彼らの真剣な姿勢に刺激を受けたんです。日本の大学生と考え方が全然違い、常に緊迫感を持って学んでいる姿を見て、「今までのぬるい生活をしている場合じゃない」と思ったんです。帰国後は真面目に授業に出るようになり、井上宗迪先生と仲良くなって、放課後に特別授業をしてもらったりしました。20人ほどの自主ゼミを立ち上げ、学びに集中するようになりました。

田坂会長: 私は3期生でした。当時はまだ4年生までいない状況で、校舎もピカピカでした。大学の仕組みも確立されていない黎明期でしたね。サークルも少なくて、私は飲み会サークルに入りました。ゴールデンウィークに新歓コンパなどをやって、学生生活をスタートさせました。2年生のときにはその代表を任されました。150人集めた歓迎会もやりました(笑)

当時は「起業家集まれ」という雰囲気があり、野田一夫先生が集めていた影響もあって、起業に興味がある学生や家業を継ぐ予定の学生が多かったように思います。先輩がいない分、自由にできて、みんな「とにかく友達を増やさなくちゃ」という感じでやっていました。意外と自由な校風だったので、自分たちで道を切り開いていくような経験ができたと思います。

青柳 史郎氏青柳 史郎氏

学生時代の起業経験

——(在学中に起業やビジネスにチャレンジした経験はありますか?

古俣氏: 私は大学在学中に個人事業としてコーヒー豆のECサイトを立ち上げました。当時はショッピングカートのツールもなく、自分でJavaScriptを作ろうとして挫折し、同級生に協力してもらった記憶があります。月商は30万円ぐらいでしたが、利益率は良かったので新卒と同じくらいは稼げていました。

その後、2005年に写真素材のサイト(現在のピクスタ)を始めました。当時、デジタル一眼レフカメラが普及し始めて、アマチュアの人たちが良い写真を撮れるようになったのを見て、素材として売れるのではと思ったんです。アメリカではそういったサービスが伸び始めていましたが、日本ではまだ珍しかった時代ですね

古俣 大介氏
古俣 大介氏

社会人キャリアと起業への道

——(大学卒業後のキャリアパスと現在の会社に至るまでの経緯を教えてください

青柳氏: 私は大学在学中、ピザ店のデリバリーの仕事をしていました。すぐにリーダーになり、店長代理のような役割を任されました。その頃、ピザハットのフランチャイズオーナーが5店舗ほど持っていて、ベンツに乗るなど成功している姿を見て、ビジネスの魅力を感じました。その後、あるソフトウェア会社の社長の息子さんの紹介で、IT業界に入りました。

最初のソフトウェア会社で約6年働き、その後ベンチャー企業2社で役員を経験しました。29〜30歳頃までは、その2社で営業役員のような立場でした。その後、サイバーセキュリティの分野に興味を持ち、GSXに入社。入社して2年で役員になり、5年後の2018年に社長に就任。その3年後の2021年に上場を実現しました。

私は完全に自分で起業した社長ではなく、既存の会社でキャリアを積み、社長に就任したタイプです。社長就任時、会社は厳しい状況でしたが、ビジネスモデルを変え、人の入れ替えを行うなど「第二創業」のような形で再建に取り組みました。「なぜこんな成長業界なのに赤字なんだ」と株主から厳しい声が上がる中での就任でした。

社長を引き受ける条件として、IPOを目指すこと、ビジネスモデルを変えることを提示しました。サブスクリプション型のビジネスモデルを導入し、1年ほどは転換に苦労しましたが、次第に軌道に乗り始めました。


田坂 正樹 同窓会会長

古俣氏: 私は大学卒業後、ガイアックスの上田裕司社長に出会い、インターンをさせてもらいました。「給料はいらないので1ヶ月だけ」と言って入ったのですが、面白くて、そのまま社員になり、子会社の役員も経験しました。当時、上田社長は家がなくてオフィスに寝泊まりするほどの起業家魂を持っていて、みんな会社に寝泊まりしながら働くような環境でした。その姿勢にとても感銘を受けました。

しかし、10ヶ月ほどで「自分は起業するんだった」と気づき、退職。半年ほど考えた後、会社を設立し、オンデマンド印刷のサービスを始めました。ポスターやチラシをネットで注文できるサービスを考えていましたが、デザインや写真撮影まで自分でやることになり、労働集約的になりすぎてしまいました。「これではネットビジネスの強みを活かせない」と思い、一度仕切り直すことにしました。

その後、ECサイトでも成功し、月商1000万円程度まで成長させました。父親が雑貨の小売業だったこともあり、売れそうな商品をネットで販売し始めたところ、うまくいきました。当時の神田昌則氏のマーケティング手法を取り入れ、「1商品1サイト」という戦略で展開したのが大きな成功要因でした。

2005年にピクスタを創業し、シードVCから資金調達を行いました。2006年頃には少し市場が回復し資金調達できました。しかし、その後リーマンショックが起こり、再び厳しい状況に陥りました。クリエイティブやコンテンツの分野で大きな事業を始めたいという思いを持ち続け、写真素材サイトを成長させていきました。2015年に上場を果たすまでに創業から10年かかりましたが、最初から上場を目指していたので、VCからの資金調達や大手企業との協業などを戦略的に進めました。

田坂会長: 私は新卒で株式会社ミスミグループに入社しました。入社のきっかけは、多摩大学の先輩が勤めていて、初任給の良さで決めました(笑)当時はトビ職のアルバイトをしていたので、「サラリーマンでもこんなに稼げるなら」と思いました。

会社では新規事業の立ち上げを任され、パソコン部品のマーチャンダイジング担当になりました。1年目の秋には、シリコンバレーに一人で出張するほど任せてもらえました。その事業は5年で40億円規模になり、社内で評価されました。当時は必死で働いていたので記憶があまりないほどです。

26歳頃に独立し、その後はベンチャー企業の非常勤取締役や様々な仕事をしながら生計を立てていました。週刊アスキーのネットラジオのDJや、自宅の下で飲み屋を経営したりと、様々なことに挑戦しました。

2002年に現在の会社を創業しましたが、そのきっかけは元上司からの連絡でした。ミスミの方針が変わり、私が担当していた新規事業が終了することになったため、「ミスミでは実現できなかった構想を君が形にしないか」と言われたのです。創業初期は全く上場を考えていませんでしたが、2017年にマザーズ市場に上場しました。

上場のタイミングは重要で、当時は年間180社ほどが上場する好況期だったため実現できました。金融機関と話をした際には「純利益が1億円あれば上場できる」という条件でした。幸い、その規模には達していたので実現できましたが、今の厳しい市場環境だと難しかったかもしれません。

起業後の苦労と成長

——(起業後や経営者として苦労した点や乗り越えた困難について教えてください

古俣氏: 起業してから上場するまでの10年間はとても長く感じました。特にリーマンショック後の資金調達は非常に厳しかったです。事業が軌道に乗り始めても、常に次の資金をどう確保するか、どうやって事業を拡大していくかという課題と向き合っていました。創業メンバーや初期のスタッフが疲弊したり離れていったりする時期もありましたが、写真素材マーケットの可能性を信じ続けました。

青柳氏: 私の場合は、既存企業の社長になるというキャリアパスでしたが、やはり苦労は多かったです。親会社との関係調整に非常に苦労しました。例えば社員のために炊飯器を3台購入して、「お昼はあたたかいご飯を食べ放題にしよう」というちょっとした福利厚生を始めたことも指摘されたりなど、常に監視されている状態で経営するのは非常にストレスでした。

2021年に上場してからは、親会社からの干渉も少なくなり成長し続けることができました。今では社員のために炊飯器だけでなく、懇親のための飲食やマッサージなど様々な福利厚生を充実させています。小さなことでも社員が楽しめる環境づくりを大切にしています。

IPO市場と現在の課題

——(現在のIPO市場や今後の課題についてどのようにお考えですか?

青柳氏: 現在のIPO市場は、半年ほど前から非常に厳しい状況です。新規上場が極めて難しくなっており、証券会社の審査で落ちてしまうケースが増えています。私の知る限りでも何社もあります。数年前なら確実に上場できたような会社でも、今は通りません。

結果として、経営者はIPOを諦め、M&Aの道を選ぶケースが増えているように感じます。スタートアップ起業も大企業に数十億円で売却するというような選択をしています。VC投資も厳しくなっており、大きく成長しそうな企業にしか資金が集まらない状況ですね。

古俣氏: 確かに現在の環境は厳しいですよね。私たちが上場した2015年頃とは全く異なります。当時も様々な困難はありましたが、今のように証券会社自体が新規上場に消極的という状況ではなかったです。企業としては、資金調達の方法や成長戦略について、より多様な選択肢を考える必要があると感じています。

田坂会長: 上場というのは一つのゴールではなく、新たなスタートだと思います。私たちが2017年に上場した時は、証券会社との関係も比較的スムーズでしたが、時代によって状況は大きく変わります。上場後も常に変化に対応し続けることが重要です。

多摩大学の同窓生ネットワーク

——(多摩大学の同窓生ネットワークについてどう思いますか?

青柳氏: 最近、同窓生の飲み会を始めて思ったのは、多摩大出身者のネットワークがこんなに広がっているとは思わなかったということです。特にIT系で活躍されている方が多い印象です。企業でも退職した同窓会では、OB同士がビジネスを紹介し合うエコシステムもあり、同様なシステムができたら面白いと思います。例えばOB内で「人事システムを導入したいがおすすめはないか」といった情報交換ができるといいですね。

田坂会長: 実は多摩大学の卒業生はみんな活躍しているのに、それをお互いが知らないだけなんですよ。卒業生もついに1万人を超え、意外な分野でも多摩大生が活躍しています。グローバルスタディーズ学部は観光系が強く、鉄道や航空業界等に進む人も多いんですよ。

古俣氏: そのうち日経新聞などで「隠れた起業家輩出大学」として紹介されることも目標ですね(笑)我々がまだ知らない活動をしている同窓生も多くいそうですね。

同窓会の今後について

——(今後、多摩大学の同窓会をどのように発展させていきたいですか?

青柳氏: 同窓会のネットワークを強化することで、ビジネスの機会創出だけでなく、多摩大学生のためにもなると思います。私も個人的に多摩大学生のインターンや採用を優先的に考えています。現在弊社には多摩大学出身者が2名働いています。今後もっと多く採用したいですね。

田坂会長: こういった対談をアーカイブとして残し、卒業生同士の繋がりを強化していきたいですね。就職課と連携して、多摩大生のインターンや採用を優先的に行うような仕組みも作れたら良いと思います。

青柳氏: そうですね。大学のキャリア支援課がもっと多摩大学出身の経営者の情報を把握して、学生と企業をマッチングする仕組みがあると良いですね。多摩大学のOBが経営している会社なら、後輩たちを優先的に採用したいと考える経営者は多いはずです。

古俣氏: 私も同感です。今後の展望としては、多摩大学の同窓会ネットワークをもっと活用して、在学生へのメンタリングや講演などの機会も作れればと思います。私たちの経験が、これから社会に出る学生たちの役に立つかもしれません。

田坂会長: 同窓生のデータベースのようなものがあれば便利ですね。「この業界ならこの先輩に相談してみよう」といった形で、自然とネットワークが広がっていくと思います。まずは私たちのような上場企業経営者の集まりから始めて、徐々に広げていければと考えています。

青柳氏: 記者などにアプローチして、「多摩大学出身の起業家マップ」のようなものを作ってもらうのも面白いかもしれませんね。野田一夫先生の思いがまだ生き続けているという証明にもなると思います。

【各氏が経営している企業】

グローバルセキュリティエキスパート株式会社 https://www.gsx.co.jp/
ピクスタ株式会社 https://pixta.co.jp/
株式会社ピーバンドットコム https://www.p-ban.com/corporate/