「恩師から学んだ『理解』の本質について」 桐林 東一郎(7期生)

 「理解するとはどういう事か?」
 この質問を、ゼミの担当教授だった近藤先生に問われた事が、今でもとても印象に残っています。当時、私はこの質問に答えることが出来ませんでした。自分なりに1週間、この問について一生懸命考えてみましたが、なかなか的を射た答えに辿り着けなかったことをよく覚えています。
 1週間悩んだ末、先生に教えてもらった答えは、「たとえ話が出来ること」ということでした。つまり、「伝える相手がわかるような言葉で説明すること」という意味だということだと思います。この解答に、「なんだそんなことか」と思われる方もお見えだとは思いますが、当時の私にとっては、硬いアタマをハンマーで粉砕されたような経験でした。
 「相手がわかるような言葉で説明する」ということは、その事柄についての本質をつかんでいないと出来ることではありません。また、それを「たとえ話」にするということは、相手がよく知っている内容で、伝えるべき事の本質が類似しているものを探さなくてはなりません。どちらにせよ、きちんと本質を掴んでいなければ出来ないということです。逆に本質が掴めていないと、きちんと伝えることは出来ないということだろうと思います。
 それまで「理解」というような、日常何の疑いもなく使っている言葉の意味について、深く掘り下げることなど考えたこともありませんでした。いろいろな言葉を何となく使っていたのだろうと思います。この質問は、その言葉の持つ意味の本質を掴むことが、いかに重要であるかということを、僕に伝えるための問いかけであったのではないかと思います。また、「理解する」ということは、言葉の意味に限らず、何事においても本質へのアプローチが大切であるとも受け止めています。
 この考え方が、僕に様々なインスピレーションを与えてくれました。現在でも、この考え方が基盤となって仕事をしています。まだまだ、何事においても、まだまだ本質が掴めていない事ばかりですが、この言葉を胸に頑張っていきたいと思います。