「死へのイマジネーションから…」 堀江 秀尚(8期生)

「僕も明日死ぬかもしれない…」
高校3年の冬、クラスメートの突然の死の報に打ちのめされました。とても仲の良いクラスで、彼女はクラスの中でも一際輝く存在でした。そう、当時の僕が月なら彼女は太陽のような存在でした。高3の僕は人の死というものに直面し、恐怖と焦りを感じました。しかし十代という年齢からでしょう、それだけでは留まりませんでした。
「彼女の無念を晴らすためにも、『死ぬ気』で精一杯生き抜きたい!」と、当時の僕は思ったんです。

 そのためには「自分の好きなことをやらなくては、今すぐに!!」
今まで深く考えてこなかった分、自分は何が好きで、何が嫌いか、頭をフル回転して考えました。そして「自分は子供が好きだ!子供に夢を与えるような仕事に就きたい!」という、とりあえずの答えを導き出しました。そして教師か?、声優か?という、具体的な職業の2択にまで絞込み・・・全く未知の職業「声優」という道をチャレンジすることに至るわけです。
 当然、烈火の如く親の反対に遭いましたが、大学受験は途中放棄せず受験することと、青二プロダクション俳優養成所「青二塾」という、業界でも最難関の養成所の受験のみチャレンジを許されました。
結果・・・、皮肉なことにずっと受験勉強に励んでいた大学は全滅、熱意はオンリーでチャレンジした俳優養成所には見事合格することが出来ました。

 しかし、「それでは晴れて声優への道まっしぐら!」とならなかったのが、実に私らしいのですが、とにかく両親共から再度大学受験を促されましたし、当時『死ぬ気』でチャレンジモードに入っていた私は、「もし可能ならば是非大学も受験させて欲しい!」ということで、俳優養成所生活&浪人生活の『二重生活』に突入します。が、それは当然甘いものではなく、言葉では言い表せないくらい厳しいな生活でした。そんなハードな日々を送るうち、夏休み頃には自分の中で第二希望であった「大学への道」は揺らぎ始めたのですが、そんな時知り合いからある新聞記事の切り抜きを渡されます。
 「学長が外国人で、ベンチャー企業家を育成する大学があるんだって。これからの君にピッタリの大学じゃない?」それは当時多摩大学の学長に就任されていたグレゴリー・クラーク学長のインタビュー記事でした。ベンチャー企業家という言葉自体を知ったのがこのとき初めてでしたから、何が「これからの自分にピッタリ」なのか?当時の自分には全く分かりませんでしたが、その記事を目にした瞬間何故かビビッと来たことだけははっきりと憶えています。そしてその未知なるものへの好奇心から、ベンチャー企業家というものを調べ、声優という職業が「個人事業主=社長」という括りであることを調べ、ようやく彼の言っていた『これからの君にピッタリ』の意味合いを理解し、ここで初めて「多摩大学受験」一本化を決めることになります。
 人間具体的に目標が定まると強いもので、その夏以降は養成所での勉強も、大学受験勉強も一気に身が入り、翌年春には念願の青二プロダクションへの入所が、そして多摩大学への入学も決まります。

 今度はプロの声優&大学生という、またも『二重生活』に突入するのですが、そこからの日々は本当にあっという間でした。プロの仕事現場で「仕事の厳しさ」を体感し、多摩大学でアカデミックに学び、とても充実した生活を送ることが出来たからです。もちろん仕事と勉強の両立でスケジュール的に大変なこともありましたが、自分が好きで選んでやっていることですから全て納得済みでした。それどころかいつしか自分の中で、仕事現場で感じた問題意識を大学での勉強の場で取り上げてみたり、逆にまた大学で学んだことを、仕事現場で生かしたり・・というような前向きな流れまでもが自然に出来ていました。
 充実した生活の中にあると、人間はアイデアに溢れてくるものです。もともと子供が好きで教育に関心があった私は当時、「外国では演劇の授業が教育プログラムに組み込まれていて、効果を発揮している。日本でも是非そうするべきだ!その導入として演劇ワークショップを広めることで、世の中の役に立てるのではないか?」というアイデアを持つようになりました。

 そして、そのアイデアを実行に移したかった私は、当時レジャー産業経営論の授業で感銘を受けた杉田文章先生のゼミで、そのアイデアの実現に向け、仲間たちと共に研究に励むことになります。杉田ゼミではゼミ生たち各々が興味関心のあるレジャーのジャンルについて研究し、その研究内容をお互いにプレゼンテーションし合いました。ですから、僕自身が研究した「演劇ワークショップ」に関して様々な意見を聞くことが出来ましたし、また逆に仲間が研究した様々なレジャー、例えばサッカー、水泳、競馬、映画、音楽、テーマパークビジネスetc.とあらゆるジャンルのレジャーについても学ぶことが出来ました。
 ですから多摩大学での大学生活で一番印象的だったのはこのゼミ生活であったと言っても過言ではありません。自分の中にある問題意識を取り上げ研究し、その研究成果のプレゼンを続け、最後にその研究課題を卒業論文として纏め上げるまでの過程は、本当に刺激的で楽しいものだったと記憶しています。そして、そこで勉強したことは今も自分の中に息づいています。

 私は現在声優・俳優という職業人として生きていますが、多摩大学で培ったベンチャー・スピリットはその枠を乗り越え、勝手に飛び出してしまいます(笑)。死へのイマジネーションから始まった私ですが、今は生へのクリエーションを生きています。そうした自分を開花させてくれた大きなものに、多摩大学での学生生活があると思っています。そしてその日々にとても感謝している次第です。ですから私は、これから多摩大で勉強を志す学生に希望を与えられるような存在になれればと、今も元気に走り続けています!共に頑張っていきましょう!!

「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」 内藤 史子(5期生)

内藤 史子(5期生)


「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」
営業中、何度となく聞かされたこの言葉。場所はバンコクだったりクアラルンプールだったりシンガポールだったり。日本を離れた私が営業して回っているのは、日本語による現地のビジネス情報。高額商品ではない上、あれば便利だが無くて困るものでもない。まして契約単位は法人ごと。会社の経費で支払えばいいので、自分の財布が傷むことも無い。なので営業はマメなフォローと粘り、そしてフットワークの良さが成績に現れると思っていた。生来の口のうまさも手伝って、それなりの営業成績を取っていたつもりだったのに。時々出会う「大学ネットワーク」の壁。出身大学の同窓ネットワークを活かし、お付き合い営業を展開する競合他紙を目の当たりにするたび、 多摩大学の規模の小ささを恨めしく思ったものだ。

海外に出た日本人が人脈を作ろうとする時、大学の同窓会が強力なネットワークになっていると知ったのは、 社会人になって何年も経ってから。ああ有名大学に進学するメリットとはこの事だったのかと、自分の知識と見識の浅さを嘆いても時すでに遅し。多摩大学で過ごした4年間には何の悔いも無かったのに、ここに来てぷすぷすと不満がくすぶっていた。

しかしここはアジア。日系企業の駐在員は5年もすれば交代して行く。官庁でも無い限り、同じ大学のトップが赴任して来る事はまれなのだ。大学ネットワークでとられた顧客は、人事の時期に営業して取り返せば良い。そして新しいトップに売り込みをする際は、商品の良さをきちんと理解してもらう。そうすればトップが代わって「お付き合い」が無くなっても、取引が切れる事は無い。

と、そんな発想に切り替える事が出来たのも、多摩大できちんと「学ぶ」「考える」トレーニングを積んで来たからかもしれない。3年生から所属したゼミでは、毎週1冊の課題図書を読みこなしレポートにしてまとめていた。当時は大変だとしか思えなかったこの課題も、自分でモノを考え行動に起こすというトレーニングだったのかもしれない。

仕事メインの海外生活を送る上で何より大切なのは、未知の出来事に出会った時、対処法を自分でを考えこなす能力だと思っている。「日本じゃありえない」と、日本人ネットワークの中でアジアを否定するのは簡単だが、現地スタッフからは厳しい目で見られているかもしれない。ましてそこから反日感情や嫌悪感が生まれていたとしたら、せっかくの「ネットワーク」も本末転倒ではないか。

4年間の大学生活で得るもの。それは人脈や友人であっても全然かまわないと思う。でも私が多摩大学で得た最大の資産、それは多摩大学が「学び舎」を追求していたからこそ、得られたものだった。決して短くはない4年間で蓄積したこの資産、輝き出すのはまさにこれからだと思っている。


 

第3回「彼女(彼)、大学の後輩なんだよね。」
内藤 史子(5期生)
2006年11月

第2回「多摩大学を『特流』にしてみせる!まずトイレから…」 

白倉 正子(4期生)


「私が多摩大学を、『特流』にしてみせます!」
父親にこう言い放ったことがある。多摩大学を受験する数ヶ月前のことだった。
当時はまだ3期生しかいない無名の大学だった。でも、「成績不振者への退学勧告」などの斬新なシステムや、「社会に通用する大学を目指す」という大 学理念に一目惚れした高校3年の私は、時代を切り開く未来を感じ、受験の意思を伝えた。すると「無名の三流大学にか?」と一笑された。田舎暮らしの父だから無理もないが、「実績が無い=三流」と決め付けた一言を、私は聞き流せなかった。
ところで「一流大学」の基準って何だろう?たぶん「伝統がある」「規模が大きい」「優秀な卒業生や研究成果を多く輩出している」等が思い当たる。ならばいわゆる「二流・三流の大学」は、実績があっても与えた社会的インパクトが弱かったから、イメージが固定化されたのであって、出来たばかりの多摩大学はまだ真っ白のはずだ。ならば特別な実績を出してやろうじゃないの!だから「一流でも二流でもない、「特流」を目指す」ととっさに言ってしまった。父は「調子の良い事を言いやがって…」と呆れていた。
そのためには、一体、何をすればいいか?・・・・
そうだ、ユニークで社会に役立つ起業をして「多摩大学卒」の肩書きを前面に出してはどうだろう?
そう決意すると、有名大学へのコンプレックスがすっと消え、下から上に這いあがる面白さを感じ、燃えた。在学中は、既成概念に囚われるとマイナスになるほどの、新しい考えを学べるゼミや講義に積極的に参加し、知的好奇心をぞくぞく刺激させた。
こうして私は、卒業論文で取り上げた「トイレビジネスの可能性」を具現化しようと、トイレにまつわる新事業を構想する企画会社を、卒業直後に起業した。【どうしてトイレに興味をもったのか?については、著書「私の人生は『トイレ』から始まった!」(ポプラ社より発売)を参考にして頂きたい】
ドシロウトの私が、学校も教科書もないトイレの知識を学ぶのは独学以外にない。最初は素手でトイレ掃除をする事から始めた。でも面白かった。誰もやっていない事を開拓する快感がたまらなかったからだ。そんな私を多摩大学の恩師や仲間たちは「お前らしく、やってみろ」と、応援してくれた。多摩大学魂というのは、無謀ともとれるチャレンジを、両手を広げて真正面から受け入れてくれるところではないかと思う。おかげさまで現在は、講演・執筆・イベント企画のほか、マスコミ等でトイレ評論家としてコメントを求められる事も増えた。プロフィール欄に「多摩大学卒」と書かれると、心の中でガッツポーズ!今では父も「無からよく作り上げたもんだ」と近所に自慢しているらしい…。
卒業から10年が経過した。時々ゼミのOB会等に参加すると、何人もの「起業家」と出くわす。歴史の浅い少数精鋭の大学から、一挙に多くの起業家を輩出している大学は、世界でも希少だろう。これこそまさに「特流大学」としての新たな基準を、世に問いていると言えるのではないだろうか?
でも「特流」は一人では作れない。
この「流れ」を、もっと多くの卒業生や在校生らに、加速してもらいたい。

<プロフィール>
白倉 正子(4期生)(新姓:越川)
アントイレプランナー
1973年群馬県生まれ。92年に多摩大学4期生として入学。在学中は望月照彦ゼミ・柳孝一ゼミ・サザンクロス(演劇サークル)に在籍。96年4月、卒業直後に「トイレ企画会社22(現:アントイレプランナー)」を創業。NHK「青春メッセージ98」全国大会出場。日本トイレ協会会員。横浜市の在住。二児の母。著書は「私の人生は『トイレ』から始まった」(ポプラ社)。夢はトイレのデパートを作ること。
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http://entoiletplanner.com

第1回「天国の門馬先生と尾高先生へ」 

鈴木 信夫(3期生)


 

前略

突然のお手紙で失礼します。3期の鈴木信夫です。
天国での生活は如何でしょうか?。門馬先生。天国には、「オールド・パー」はありますか?。尾高先生。こちらでは、キャスターのラベルが変わって、へんなのになっています。
お二人には、本当にお世話になりました。勿論、現在でも、柳孝一先生や、国津信博先生にもご指導いただいていますが、今回は、リレー・メッセージなんてものを頼まれまして、色々考えたのですが、先生方の思い出をお手紙という形で書くことに致しました。どうぞお許しください。

さて、尾高先生は、僕の入試(自己推薦)での面接官であられましたね。?もう一人の先生は、杉田先生でした。間違いないっす。面接の途中で「お前面白いから、学長に会ってみるか??。」と、聞かれたときにはビックリしましたが、小走りに面接会場を出られて、呼んできて頂いた時の感動は、忘れることが出来ません。僕は正直申しまして、「とんでもないところに行こうとしているのではないか?」と、思ったくらいです。大学の先生なのに、なんと言う行動力。そして、なによりも、本当に学長にお会いすことが出来るなんて、、、。自分中で、常識というものが一つ壊れていくことが解りました。そして、お世話になりたいという気持ちで一杯でした。そんなこんなで、思いは叶いまして、お蔭様をもちまして、多摩大学で学生生活を送ることが出来たのですが、僕は、あまり勉強が出来ませんでした。それなのに、柳先生なんて受けるものですから、みんなに落ちるであろうと言われ、自分でも思い、落ち込んでおりましたら、「どこも行くところが無くなったら、俺のゼミに来い。鍛えてやる。お前を面倒を見る責任が、有るからな!」なんて、声をかけていただいたのが、本当に嬉しかったです。タバコを吸いながら本当に、ニコッと笑われる顔が忘れることが出来ません。

また門馬先生は、授業があまりにもつまらなくて、「レポート出すので授業を出なくてもいいですか?」なんて、今から考えるととんでもない提案をしにいったとき。(あの時が、初めてお話したときでしたが)先生は、快諾して下さいまして、「必ず月に一度は、進捗状況の報告をすること。それと、中間報告書は、3ヶ月に一度出しなさい」と、仰ってくださいました。進捗状況なんて言われてドキドキして教授室に伺ったら「とりあえず飲みにいくぞ!」と、毎回ベロベロになるまで呑み、そして、18番のカラオケに付き合わされたのを今のことのように覚えています。結局2年間で2回しか授業は出ませんでしたが、中間報告書を提出するたびに、お題をいただき、新聞検索からはじまって、都立や国立図書館。終いには、他大学の図書館などに、行かなくてはならず大変な想いをしました。授業のほうが楽でした。正直失敗しました。 でも、物事を調べる姿勢や問題意識を持って、真実に行き着こうという探究心みたいなものをご指導いただいた気がします。そういえば、野田一夫先生に、僕がすごく注意されて、学校を辞めようかと悩んでいたときに、尾高先生もご一緒に、ご馳走になったのを覚えています。 僕が怒られた理由や、問題点の一つ一つ諭してくださった尾高先生に対して、「どうせ、今朝、奥さんと喧嘩したんだよ。お前に当たっただけさ。さあ、呑め。」そんな、理論の欠片もないコメントをしてくださった門馬先生は、最高でした。!

尾高先生の授業は、いつも楽しかったです。それは、いつも「実際には、、、。」なんて、実務の話をされていたからです。まだ出たことの無い社会に対して 恐れと、希望を持っていたころでしたから、本当に楽しみにしておりました。しかし、「まあ、お前に、管理とか経理とかは無理だね。諦めて、他の勉強しなさい。」なんて、悲しいことを言われたのを覚えていますか?。その前に、全く同じことを国津先生にも言われて、ショックだったんですよ。こんな僕でも、傷つくことも有るんです。

先生方は、驚かれるかもしれませんが、僕は、今、家業を継いで商売をやっています。尾高先生に、「向かない」と、はっきり言われた事柄も、時々先生の教科書を開きながら実際に判断することも有るんですよ。勿論、あんまり向いていないとも思いますが。。。。。門馬先生に、いつも真っ赤になるまで添削されていた僕が、こんな文章を書くようにもなったんですよ。本当に、自分でも信じることが出来ません。

多摩大学に憧れ、夢を持って入学したぼくは、友人達や、先生方の変わらぬご指導を頂きながら、いまもがんばっています。失敗することも多くてお客様や、仲間に助けられてなんとかやっているといのが実際ですが。よくよく考えますと、それは、今も昔も変わらないかもしれません。勿論僕は若いですから、まだそちらのほうには、伺うことが出来ません。現在僕は、夢や希望に溢れております。今の僕は、多摩大学で学んだこと「斜に構えないで真正面から向き合う心」「自らの手で開拓しようというチャレンジ精神」等が、未だに僕の心の中にあります。もしかしたら僕は、授業の内容より、余談やお酒の席で話してくださった事柄ばかり覚えているかもしれませんが、それが、僕の力になっているような気がしてなりません。

僕は、先生方の学生でよかった。多摩大学の学生でよかった。お二人に会えて、本当に良かった。と、心から思っています。 でも、時々、辛いこともありますし、参ってしまうこともあります。 本当は、また、呑みに連れて行って欲しいです。。。。

最近、多摩大学を卒業して独立起業している友人と語っているときにこんなことを彼が話してくれました。それは、「商(あきない)にも道が有るのではないか?」と、いうことです。沢山の流派や流儀が有るわけですが、柔道や剣道といった武道のように、 極めようとすれば、そこには、人生の全てをぶつけるだけの深さが有る。そして、それに気づかせてくださったのが、多摩大学だったのではないかと。基本を教わったのが、多摩大学であったのではないかと。僕らの流派は、多摩大なわけです。僕は、友人の意見に賛成です。僕は、自らの信じる道を 「商」を通して、極めて行きたいと思います。人生をかけて。!

今度、天国でお会いしたときに、怒られない様に、僕は、こちらの世界で多摩大学の卒業生として誇りを持って、胸を張ってがんばって生きたいと思います。

遠くから、応援していてください。お酒を呑みながら、タバコをふかしながらで、結構ですから。!!!

僕は、まだまだ、がんばります。
それでは、失礼します。

草々

レポートのみの履修は現在多摩大学では認められていません。
現在多摩大学では館内禁煙になっています。
当時の多摩大学らしさを尊重する為、原文のまま掲載致します。

第1回「天国の門馬先生と尾高先生へ」
鈴木 信夫(3期生)
2006年9月

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2009年3月20日(祝) 卒業のつどい 出席のご報告

平成20年度「卒業生のつどい」に、同窓会役員として、参加してまいりました。同窓会を代表して、新会長が祝辞を申し上げました。
「貴方の受けた多摩大学での教育が、素晴らしかったことを貴方が証明してほしい。」と申し上げました。
いつか、また皆さんとお会いできることを同窓会一同楽しみにしております。おめでとうございました。

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2005年度 活動報告

学園祭2日目、学生食堂にて午後4時より、第1回総会が行われました。
143名の出席者により、新役員の承認がされました。
引き続き、懇談会が行われ、大盛況の中、無事に会を終えることができました。
皆様には、貴重なご意見を頂き、今後の参考とさせて頂きたいと思います。

<出席者内訳>

<出席者の方からのコメント抜粋>

  • オリンピックイヤー毎に総会をやったらいいのではないでしょうか?
  • 同窓会名簿の更新、住所変更のE-mail報告で可能になるようなシステムにしてほしいです。総会は毎年でなくて良いので継続したほうが良いと思います。
  • 場所も大学以外で開催してもよいのでは。
  • 卒業して初めて学園祭に来させて頂きました。数年前と比較しても、人の多さに驚きました。同窓会に関しても、多くの仲間が集まっている為、非常に嬉しく思います。定期的(年1回など)に開催して頂ければ幸いです。
  • 年一回に仲間や先生方にお目にかかることはとても光栄なことだと思っています。ぜひこの機会に、個人の活躍や多摩大での動きを知りたいと思っていますので、今後の開催に期待しています。
  • 今回はじめて、OB会があることを知りました。次回からは是非参加します。BBSやメーリングリストを作ってはいかがでしょうか?
  • 同窓会にしては、人数が集まらないのが残念です。文化祭と同日に行うのはどうかと思う。会場も別に設定して行った方が人が集まるのでは?
  • 会費をとってもいいので、どっかに会場をとってやって欲しい。
  • 年に一度、このような会もいいですね。来年はもっと大勢になることを願って・・・
  • 懐かしい校舎での同窓会、楽しかったです。
  • 卒業以来、会っていなかった人達にも会え、状況を聞くことが出来たので、またこのような機会を設けて頂ければ嬉しいです。
  • 先輩方の活躍を現役学生のみんなに話して、希望ある未来を夢みることができる企画をつくれば独創的は大学に近づいていくと思います。
  • 一人で来てしまったので淋しかったです。ゼミ、サークルで連絡を回すなどしてさそい合わせれば参加率も上がるかも・・・と思いました。
  • 同期会の開催、期待しております。
  • 又、次回も、開催して下さい。卒業以来、10年ぶりに来ました。
  • 今日は久しぶりに学校にこれて嬉しいです。また何年後かにこの様な同窓会があるとい良いですね。
  • 文化祭と同時に行うのは、いい事だと思います。1期生ですが。卒業以来大学に来ました。欲を言えば、遠くから来る人も多いと思うので、土曜日の方がいいなあと思います。
  • 大学に集まる機会があるのはとてもよいと思います。
  • とてもgoodタイミングで、この会がある、うれしかったです。これを機に、ネットワークができそうで何よりです。
  • 新宿とか人が集まりやすい所でやるといいかも。