「多摩大伝説を創れ。」小島 幸博(2期生)

 わたしにとって多摩大で学んだことと言えば、だいたい以下3つに無理やり区分できる。

1.野田イズム
2.望月プレゼン
3.白根IT
(敬称略)

 まず「野田イズム」だが、ご存じ初代学長の野田一夫先生から学んだ文字通り“イズム”である。たいがいの大学で「学長」といえば、会話すらかわすことなく、縁遠い存在だと思う。ところが多摩大は野田先生が学生側へどんどん攻め込んできて、繋がりを作っていった。学園祭実行委員会を組閣したかと思えば、新聞部を旗揚げしたり、ランチミーティングと称して赤坂のオフィスへ呼んでいただいたりした。わたしが野田先生から受けた影響は計り知れない。あれほど元気で明るくて、自由に闊歩している“大人”を二十歳そこそこの小僧である自分は見たことがなかった。野田先生と会話していて、もっとも印象に残っている言葉がある。「小島、電車に乗ったら前の席に座っているサラリーマンを見てみろ。その人がキラキラしてかっこいいなぁと思えるなら、そういう人を目指したまえ。反対に、ああ、くたびれていてこういう人にはなりたくないなぁと思うなら、そういう人間にはなるな」と。衝撃であった。ある種の真実性をもった喩えだったからだ。わたしは、それから野田先生の教えの通り、キラキラしてかっこいいなぁ、と思われる中身も実力もある“大人”を目指しているし、何もないところから大学を創り、システムや組織を創っていったあの開拓者精神に充ち溢れた「野田イズム」をいまも携えて生きている。

次に「望月プレゼン」と称したが、これは望月照彦先生の持つゼミで学んだプレゼンテーション能力を意味する。1、2年時に専攻し、もはや名物ゼミとの誉れ高い望月ゼミは、学生に企画会社を作らせて、望月先生がクライアントとなって「お題」を出す。その「お題」に対して、何週間もかけて資料を漁り、頭から湯気が出るほど考え、ゼミの仲間と議論して企画をまとめ発表する、という先見的なシミュレーション方式のゼミであった。この望月ゼミにわれわれはのめり込んだ。もはや大学のひとつの授業ではなく、青春のすべてをそのプレゼン一本一本にかけた。与えられた期間はおよそ四週間。その間に「お題」に対するコンセプトやキャッチコピーをまとめ、企画書に起こした。当時はインターネットもパソコンもなく、ワードプロセッサーと手書きのイラストで挿絵を入れるなど創意と工夫を重ねた。特筆すべきは、そのプレゼンテーションの手法にあった。わたしは、演劇、映像、紙芝居などありとあらゆる手法を取り入れた。望月ゼミは回を追うごとにどんどん濃くなっていったが、その表現の自由さ、懐の深さが、現在のわたしに根深く反映されている。企画書の書き方やプレゼンの方法、そしてビジネスを進めることの基本は、“相手を感動させることだ”という真理を教えてくれた。だから、その頃に学んだあらゆる「プレゼン能力」は、いまもわたしの仕事の一部を成している。

 そして、「白根IT」と呼ばせていただくが、3、4年時に専攻した白根ゼミもわたしに大きな影響を与えている。白根禮吉先生は「情報概論」という授業を担当されており、まだ「IT」という言葉が始まる前に、すでに情報ネットワークの話をしていた。非常に温和な話し方で、野田先生を「動のダンディズム」と称するなら、白根先生は「静のダンディズム」のように映った。お二人は無二の親友でもおられた。白根ゼミではダニエル・ベルやアルビン・トフラーの本を教科書に自分の意見を述べるディベート方式が採用されていた。まだ、携帯電話もGoogleも一般的ではない時代に、「情報テクノロジー(IT)」「文明論」「現代思想」を融合したようなユニークな内容であった。白根ゼミでわたしは卒論を書くのだが「電脳哲学・脱バーチャルリアリティー」という荒唐無稽なものであった。当時、白根先生には理解できない世界観でギャフンと言わせてやろう、と不肖の息子のような情熱で上梓したのだが、なんとこの難解な卒論を白根先生は「素晴らしい。小島君はやさしい人なのだね、作家にでもなったら?」とあっさり読み解いてしまったのである。いやはや、これには舌を巻いた。内容は今でいえば映画「マトリックス」のような哲学的論文なのだが、卒論を書いたのが93年であり、「マトリックス」は99年公開である。この卒論は95年に電気通信普及財団の第4回テレコム社会科学学生賞の最優秀賞を受賞する。白根先生に評価されていなければ、この懸賞論文に応募していなかったかもしれない。いま思えば、わたしの卒論などとっくにお見通しの偉大なる未来派「IT」の父であったのだと思う。

 わたしは、もともと中学・高校の頃からゲーム業界で生きていくと決めていた。だからその夢はかなり近い位置までたどり着けたと思っている。だが、多摩大でのこれらの経験がなければ、普通の人で終わっていたような気もする。いまのわたしが持つ個性をさらに濃くして磨いてくれたのが多摩大のような気がするのだ。ゲームやエンターテイメントの仕事は、人を幸せにする仕事だ。他人を幸せにするためには、自分が幸せでなければできない。自分が不味いと思うラーメンを出すラーメン屋は繁盛しない。やりたくないと思う仕事を続けても、やはり繁盛はしない。ハッピーを生むためにはハッピーが必要なのだ。 多くの人はサラリーマンであり、独立起業して社長になる人は数少ないと予測できる。もし、自分が社会の「歯車」になっている、という恐れがあるなら、それが「巨大な歯車」になるように頑張ればよい。「巨大な歯車」は大きな動力となって何かを動かせる存在になれる、ということだ。仮に独立起業するならば、誰かが敷いたレールの上を走る列車ではなく、自分でレールを敷きながら自由自在に走りまわれる列車でありたいものだ。巨大な歯車はやがて一陣の竜巻を起こすだろうし、自在に走る列車はやがて蒼い稲妻のように天に轟くであろう。

 多摩大は20周年を迎えたという。最新のキャッチコピーは「志塾」だそうだ。わたしから見れば、多摩大は20年前からずっと「私塾」であった。だから、このコピーはある意味、正しい。大学のブランドを、その大学自体が創り上げるということは難しいと思う。大学はサービス業だと言われた時代があった。お客さんは学生であり、お店の評価をするのは学生である、と。大学がブランドを創りにくいとすれば、いったい誰が創るのか?  それは、卒業した人の「志」・・・つまり、「われわれの価値」である。 多摩大は多摩大から巣立った人々が、現代社会において「何を成すか」によって、ブランディングされる。あえて言うならば、大学があなたを幸せにするのではない、あなたがあなたを幸せにするのであり、その幸せの恩恵をあなたの一部を育てた多摩大が受け取るのみである。さまざまな業界・ジャンルで活躍している人物の、そのルーツを紐解いてみたら“たまたま多摩大学であった”ということが重要なのである。

 わたしがここで伝えたいのは「多摩大伝説を創れ。」というメッセージである。

 わたしの活躍は、わたし自身を楽しくし、多摩大を楽しくしてくれる。あなたの活躍は、あなた自身を豊かにし、多摩大を豊かにしてくれる。それこそが、われわれができる“学び舎”に対する最大の恩返しだ、と思う次第である。

「近況報告!〜初投稿です。」 富岡 和久(2期生)

 “遠く遠く離れていても~”槙原の懐かしい唄を飛行機の中で聴きながら、私の近況報告をさせてもらいます。 多摩大学を卒業したのは、本当に”遠く遠く昔”のような気がします。私は、現在「食品業界」で働いております。入社した、平成6年はバブルが崩壊したすぐ後で、今もまた、不況の入り口に入っていますね。

「食品業界」も大変ですよ~!消費の冷え込み・原料高・原油高(最近は下がりぎみですが・・・)・食品事故(事故米・メラミン問題・カップヌードルに異臭・伊藤ハムの地下水 etc・・・)
皆さんは、今、何に重点をおいて食品を買っていますか? 第一は価格でしょう。メディアにて連日取上げられた”食品の値上げ!”。川下にいくに従って、値上げ分を企業努力で吸収し厳しい状況が続いております。ここにきて、スーパーの値下げ競争は激化傾向です。◇食料品千品値下げ~! ◇円高還元セール実施!などなど。
そして、今の消費者は価格だけではなく、「安心・安全」にもますますシビアになってます。食品メーカーとしては、「こんな程度でも回収するのか~」と思う事例は数々ありますが、「安心・安全」に配慮した商品設計・生産体制に人とお金を掛けられない企業は生き残れない状況です。厳しい~!
そして、その上に「品質」や「企画力」や「ブランド力」が優れていて、始めて”売れる商品”となるのです。商品のライフサイクルが短くなっている今、「ヒット商品」を出すのは非常に難しくなってますね。

さて、来月はもう師走、1年は早いものですね。(何だか、30後半~40台は時が過ぎるのが異常に早く感じるそうですね!!)12月は私にとってもメチャクチャ忙しい『クリスマス商戦』が控えております。私の会社はクリスマスケーキも扱っておりますのでホントに忙しい。<なんと、期間で約260万個のクリスマスケーキを取扱いがあるんですよ!ヘトヘト> 

これから、忘年会も数多く、お酒を飲む機会も増えると思いますが、皆さんもお体にはくれぐれも気を付けてくださいね。 それでは。

「多摩大学同窓会リレーメッセージに寄せて」 鴨川 美紀(14期生)

 暑い日が続く。先日、多摩大学OBが北京オリンピックに出場するという事を知り、とてもうれしくなった。多摩大学は小さな大学だけど、オリンピック選手もいる。そんな多摩大学がすごいと思う。その方は、女子サッカー日本代表の原歩さん。面識はまったくないが、この暑い日本から、なでしこJAPANの原歩を応援したい!

 多摩大学を卒業して、2年5ヶ月がたった。時がたつのばかり早く、まったく成長していない自分に、そろそろ焦りを感じている。「まちづくりの専門家になる」という夢に向かって、右往左往の日々の私が、しっかり前を向いて活躍している皆さんに混ざりこのようなメッセージを担当するのは、場違いのような気がしている事を、はじめにこっそり伝えておこうと思う。

  ・仕事のこと
今、私は二つの仕事を持っている。一つはお給料をもらっている仕事、もう一つはお給料をもらっていない仕事(趣味仕事と呼んでいます)。
前者では、都市防災を専門とする調査とシステム開発を行う会社で、私は調査業務とシステム開発スタッフとして働いている。主に内勤だが、行政や専門化向けのサービスを提供している関係で、外に出て仕事をすることもあり、また、直接住民の方と同じテーブルで議論をするワークショップ等のお手伝いをさせてもらったりしているため、地域の中に入り、まちづくりの現場も垣間みて、自分の目指す職能の必要性や、やりがいを感じている。
趣味仕事では、2006年に多摩地域のまちづくりプロジェクト団体「アーティストリンク多摩(ALT)」を同世代の友人と設立し、音楽イベントの主催(ミュージックオン多摩)とビッグバンド(多摩スイングジャズオーケストラ)の運営をメインにして活動している。
「多摩市を過ごしやすい楽しいまちにしよう!」とがんばっている商店街や事業者、NPO、行政や同じ市民活動団体の方々と出会い、協力しながら、ひとつずつゆっくり、実績を上げ、地域でも認知されつつある。この活動は、何よりも、同世代で同じく二つの仕事をもつ仲間達と切磋琢磨しながら、地域に関わっていく事が楽しい。
 なぜ、このような生活を選んでしまったのかは、大学時代の生活によるところが大きい。それぐらい、大学時代のすごし方は、仕事に影響するものだなと感じている。あまりお勧めできない生活だが、私にはこれしかないとも思うし、自分にしか出来ないことだとも思える。大変だけど、頑張れる二つの仕事に出会えてよかったと現時点では感じている。
今後もより高いスキルや経験を積み、都市づくり、まちづくりに貢献できる職能を身につけていきたいと考えている。

・多摩大学で学んだこと
 私は大学に進学するにあたって、家業の助けとなるべく経営を学ぶことと、小さなころから柳が丘という団地コミュニティ(市街地から離れたところに造成された小さなニュータウン)の中で育った環境から、コミュニティの役に立つ活動をすることを学びたいという思い、そして、できれば大好きなアニメーション作品である『耳をすませば』の舞台とされている多摩市に住みたいという希望から、経営が学べて、望月先生、斉藤先生という都市計画家がいて、多摩市聖ヶ丘4-1-1にある、多摩大学にやってきた。経営学は予想通りの学問で、取り組みやすかったが、都市計画を学ぶにはちょっと間違ったかと思った。そんな中で、都市マネジメント、コミュニティビジネスという領域に出会う事ができたのは、望月先生のおかげである。
 大学生活において一番力を入れたことは、ゼミ活動と地域活動であった。ゼミ活動では望月照彦先生と素敵なゼミ仲間たちに出会い、表現力と創造力を身につけ、そしてなにより親愛なる友人ができた。
 地域活動においては、生活者ネット主催の「政策ゼミ」や、多摩市多摩センター活性化推進室主催の「tamatamatamaビジネスプランコンテスト」、多摩大学大学院主催の「コミュニティビジネス研究会」等への参加において、多摩で活躍する方々や他大学の学生と出会い、地域活動の魅力ややりがいを改めて感じ、まちづくり活動の基盤を作ることができたと思っている。
そして、平成17年度の夏には、大学のゼミ活動と地域活動が合流する形で、『耳をすませば10周年記念イベント』のプロジェクトに関わることができた。

 この、「ゼミ」、「地域活動」それが一つになった「イベント」3つで得た経験が、今、人生の基盤になっている。この発端のすべては多摩大学。多摩大学に出会わなかったら、そんな人生は想像したくないほどつまらないものになった気がする。
最後に、お世話になった多摩大学と同窓の皆様の益々のご発展を祝してー。

「メッセージ」 松田 智之(10期生)

私は2002年に多摩大学に入学しました。
印象的だったのが、ゼミ中心大学・イングリッシュシャワー・自己発見という点でした。
それぞれが、今に至る自分に活きているものがあると実感できています。

私のエピソードと共に紹介致します。

ゼミ中心大学という点では、私は竹村先生の「リーダーシップ」を学んでいました。
「リーダーシップとは」に始まり、「リーダーになるには」と様々な点で竹村先生からは学びました。
私はちょうど、その頃に飲食店でアルバイトをしていました。
その中で、ゼミで学んだことを実践し、後輩に対して指導をしていた時にオーナーにその行動を評価してもらい、アルバイトながら副店長を 任されることとなりました。
その結果、面接・店長会議などにも参加することでリーダーシップに限らず経営の基礎という部分も学ぶことが出来ました。

また、イングリッシュシャワーでは英語に対する知識だけではなくいかに伝えたいことを伝えるか、相手に伝える為に何が必要なのかを 学びました。
これは前職での経験なのですが、個人営業の中で外国のお客様がいた時にイングリッシュシャワーの経験が活き、臆することなくお話をすることが出来ました。
また、私は英語が堪能ではないのですが、拙い会話・身振り手振りで伝えることでそのお客様にとてもよくして頂き、商品を買って頂くことが出来ました。
そのときに「あなたが頑張っているから買ったのよ」と言ってもらい感動したのを覚えています。
そのお客様は、母国に帰ってしまったのですが今もメールで連絡を取り合っています。
これはイングリッシュシャワーでの経験があったからこそだと、実感しています。

自己発見では、自分が何を得意としているのか、自分はどんな人間なのかを知ることが出来、現在の仕事にも活きていると思います。

私は、現在インターネット広告の販売営業をしていますが、そもそも自己発見での経験がきっかけで営業という仕事についたと思います。
そのときに感じたことは「自分は人と話すことが好きだ」「人と対面して満足の得られる仕事がしたい」と思い営業の道に進みました。
その中で、相手(広告主)にとって何が満足のいく提案になるのかを常に考えています。
営業という仕事は会社の基盤になるので、仕事は大変ではありますがその分、相手(広告主)に満足頂いた時の喜びは営業が一番実感出来ると 思います。

また、今回私が皆様にメッセージを伝えるきっかけになったのも仕事の取引先であり、先輩でもありメッセージ第10回を伝えて頂いた 井田様とのご縁からになります。

「一期一会」
人と人との繋がりは大事であり、不思議なものです。

「視点を多く持つこと」 近藤 倫(15期生)

大学との出会いは、母がWBS(ワールドビジネスサテライト)に出ている中谷巌学長の“多摩大学”学長のテロップに注目したことから始まります。こんな些細なきっかけから、私の大学生活が始まりました。

1年生受講必須の中谷巌学長主催の自己発見学習は、それまで学校から与えられたことだけを学んできた自分にとって、“自分達で考え、試行錯誤し、道を切り拓いていく”という能動的な行為なものであり、とても新鮮に感じました。

受身でいると、道は他人に切り拓いてもらわなければならなくなりますし、社会に出る前に意識の転換を果たせたことは、自分のターニングポイントであったのではないかと思っています。

私は4月で社会人2年目になる、まだまだ社会ではひよっこなのですが、仕事を単にこなすだけでなく、自分なりに工夫をして進める、自分なりの考えを持って進めるということを繰り返すことで、日々の業務の質も向上していくように感じ始めています。また、本をたくさん読んだり、自分から積極的に学び続けることで仕事の質も上がり、仕事も楽しく思えてきました。「能動的なマインドを持つこと」、「学ぶことの重要性を知ること」、「思考を止めないこと」、この3つは学生のうちにクセをつけておいたほうが良いと思います。

ここで今の仕事に触れておきます。
現在、私は、某ポータルサイトの、マーケティングリサーチ(市場調査)部門で働いています。自社のサービス開発のためのリサーチではなく、世の中にある数多くの企業のマーケティング課題解決のために、インターネットリサーチサービスを提供しています。調査票(アンケート用紙)を作る際には、「モレ、ダブりない」ものをつくらなければなりません。(調査で聴取していない内容は、いざ分析しようとしてもデータがありませんので、分析のしようがないのです・・・)また、「性別や、年代で違いがあるはず! ライフスタイルで違うはず!」など、いかに豊富な分析の視点を持っているか、鋭い仮説を立てられるかが求められます。実はこのような“分析の視点を考える”、“調査内容を考える”というのは、大学での実践的な講義で学んだことが大いに活かされているのです。

私は所属していた中川理ゼミで、マーケティング戦略を中心に、心理学・ロジカルシンキング・常識にとらわれない視点の重要性を学び、また刺激的な仲間とめぐり合えました。そしてなにより普段の講義で、余暇・アート・地域コミュニティ・組織・ブランド・ベンチャー・社会システムなど、経営というものを多角的な視点で捉えることができたのは、今の私の大きな財産になっていると思っています。仕事のスピードUPという点でも、大学1年からPCを当たり前に使っていたことで、入社してからの対応に困りませんでした。ノートPCを4年間貸してくれた大学の教育環境には感謝しています。

入社するまで、まさかリサーチに携わるとは思っていませんでしたが、大学で学んだことが活きていることがうれしいですね。さぁて、社会人2年目も精一杯頑張ろっと!

「学ぶ事と人の繋がり両方の大切さ」 安喰 伸明(8期生)

 私がこの大学を知ったのは野田一夫先生が大学を創られていると言う話を聞いた事から非常に興味を持ちました。立教大学社会学部観光学科は設立当初学内から非常な反発を受け「ホテル観光科」と呼ばれ「学問ではない」と叩かれたと言う話を聞いていますが、今では立教大学観光学部は「花形」です。
 そんな先生が多摩大学と言う経営専門の大学を設立する事と言うこともあり、家業を継ぐ意志を決めていた私は、大変興味を持ち入学しました。
 入学当初から経営者として将来やらなければならない色々な基礎の科目が多くあり、様々な勉強をさせてもらい、今現在でもそのノートは参考にする事があります。逆に卒業した跡の方が参考になると言うのはこの大学の特性ではないでしょうか?
 経営者になるのに必要なのは「学校歴」よりも「何を学ぶか」にあると思います。有名大学であれば何処でも何学部でも良いと言うのでは、人脈は出来でも経営の基礎を学ぶ事は難しいでしょう。また人脈は自分で切り開いて行けるものです。野田一夫先生の言葉に「多摩大学だけをキャンパスと思わず、東京すべてをキャンパスと思いなさい」と言う言葉がありますが、卒業して8年になる現在でも経済の専門家であられる井上宗迪先生にお頼みして97年に設立した、井上宗迪シャドウゼミ(通称:FEIR)の代表として活動し大学時代は既に宮城公立大学の学長になられていた野田一夫先生の所へ観光バスをかりて40名近くで訪問したり、日本の技術力を示すような企業の経営者とお話したり、他大学との連携も強め現在も13大学 約60名の参加者がおり経済情勢の勉強を通してよき交流をさせて頂いております。
 また、野田一夫先生の「多摩大だけがキャンパスではない」という言葉に従い上智大学や明治大学などで科目履修をさせて頂きました。
 このような活動を通して、人と人の繋がり、多くの友人を大学時代に得る事によって更に大事な物にする事が出来ました。卒業して8年後の今でも、先輩・同期・友人・後輩達は遊びに来てくれています。「近くに来たので寄ったよ」とか「今度転勤する事になってさ」とか「結婚する事になりました」とか、私の在籍時、1学年僅か360名足らずの大学で様々な人と人の繋がりが出来、感謝しております。
 また学問以外にも社会人として人として、今はご退官された特に楠先生を始めとする先生方を通し、様々な先生に時に厳しく、時に優しく指導された事、卒業後も色々な先生方にお世話になっている事は私には大事な宝です。大きな大学ではこれほど多くの先生方にご指導を受けられることはまず無かったと思います。楠先生の音楽論は音楽と言うより、「人生論」でありました。いつもスタジオで色々な話をさせて頂き本当にお世話になりっぱなしで感謝以上に恐縮しています。
 ゼミも基礎ゼミは椎木先生と楠先生でしたが椎木先生には昭和史と言う本通して、ゼミが加熱し、私らで自発的(自然)に夏休みに合宿のように集中ゼミを先生に頼んでやる事になったりして「こんな基礎ゼミ初めてだ」と苦笑いされながらも色々と学び、ゼミが終わった後も皆で大学の近くで朝まで話していたのは良い思い出になっています。
 本ゼミは楠ゼミと杉田ゼミでありましたが、杉田ゼミのレジャー産業を学ぶ事も無論ですが、それ以上に?先生とゴルフに行く事も私にはとても楽しみでありました。
 様々に活動する事によって得られた学ぶ事の「宝」、人の繋がりの「宝」。私の大学4年間はその様なものが多くあり、心から感謝しています。
 昨年末に後輩の結婚式に列席している中で後輩も社会の第一線で素晴らしい活躍をしている姿を晴れの舞台で見てもまた大学で本当に多くの「お金で買えない宝」を得たことを実感しています。これからも「お金で買えない宝」に感謝し大事にして行き、学んだ事の宝と人の繋がりの宝を大事にして行きたいと思います。
 最後に「お金で買えない素晴らしい宝を与えてくれてありがとう」言うメッセージを添えて終わりの言葉にさせていただきたく思います。

「大卒と高卒の違いが分かった4年間」 山本 法史(5期生)

大卒と高卒の違いとは何か。
この問いに明確に答えられる人は少ないであろう。
私は5期生で、北矢行男教授のゼミで学んだ。
当時の北矢ゼミは3年次に「ゼミナール経営学入門」4年次に「事業計画」をもとに議論をしていた。
私は黙っていることが出来ない性格だったので、ゼミではよく発言した。
そして、論理矛盾や詰めの甘さを北矢先生によく指摘され、論理的な議論のトレーニングを厳しくして頂いた。
大卒と高卒の違いはまさにこの「論理的な議論のやりとり」をトレーニングしたかどうかであると思う。
社会人になって責任ある立場でこのトレーニングはなかなか出来ない。
大学生という身軽な立場でこのトレーニングの機会に巡り会えたことを幸せに思う。
そして大学を卒業するということは、このトレーニングを積んだという証だと思っている。
その理由を以下で説明したい。

私の今の商売は社会保険労務士である。
社会保険労務士とはどんな仕事か。
正確に理解されている方は少ないと思う。
仕事は、社会保険や労働保険の手続きの代理、給与計算といった人事部門のアウトソーシング、就業規則をはじめ社内諸規程の整備、労働組合との交渉や個別の労働者との解雇や労働条件に関する問題での交渉。当然労働側に立つ先生は会社との交渉になる。社会保険労務士法が改正され、一定の条件の下で、相手方との和解交渉や和解契約の締結といった今迄弁護士の独占業務だった権限が司法制度改革の一環により社会保険労務士に付与された。法律専門職なのである。

この職業を志した理由は父の跡を継ぐ為。
私が継いだときは3名の職員だったが、今では12名の職員がいる東京都においても大きい事務所に分類される。 かなり頑張った。

では経営情報学部出身で経営戦略論のゼミ出身の私が、なぜ法律専門職となって法学部出身者とやりとりが出来るのか。
当然民法や民事訴訟法といった法律の基礎知識は殆ど無く、必死に勉強をした。
法学部に入っておけば良かったと思う時期もあった。
しかし、はじめに述べた北矢ゼミでの「論理的な議論のやりとり」のトレーニングが非常に役に立った。
論理的思考は戦略的思考であり、それは法的思考であるというのが私の結論である。
知識は志さえあれば後からついてくる。
法律専門職にとって大切なことは知識より、論理的にものごとを組み立て、それを自らの言葉で主張し、まとめていくという能力である。
この基礎的な能力を北矢先生の指導の下にトレーニングが出来た。

今では弁護士と連携して経営者側の立場に立って労働事件に関与することが多い。
その弁護士と対等に連携出来ることは、労働法に関する知識と論理的な議論のやりとりが出来るという基礎能力があって、経験が積めたことが非常に大きいと思う。
大学時代にしか出来ない経験とはたくさんあると思う。
しかし私にとってかけがえのない経験とは北矢ゼミでの「論理的な議論のやりとり」であった。

法律職に限らずこの経験はどんな局面でも役に立つと思う。
在学生の皆さんは是非ともゼミにおける議論に積極的に参加してもらい、このトレーニングを積んで欲しい。

「野沢菜漬けはチチの味?」 飯田 力(4期生)

多摩エリアから中央高速で約2時間、長野県は富士見町で生活を始めてはや3年目を迎えました。大学時代から付き合っていたカミさんとの共通の夢「田舎暮らし」は結婚8年目の夏にエイヤ!と始まりました。

当時、アニメ制作会社でCGディレクターをしていましたが、その仕事を在宅社員として出来ることとなり(社長のご好意です!)、土地探し第一候補の八ヶ岳南麓で仮住まいがスタート。3人の子どもたち(当時6歳、4歳、2歳)も東京に未練を残しつつすっかり新しい土地に慣れました。

田舎暮らしで一番やりたかったことのひとつが「家造り」。2年前に八ヶ岳を望む広々した土地が見つかり、1年前に家造りをスタートさせました。
基礎や骨組み屋根までは大工さんにお任せし、それ以降は少しずつ家族で作業を進めるハーフビルドです。途中、2階の足場から落ちるというアクシデントもありましたが、大工さんの助けもあり、現時点は床の仕上げの真っ最中。
来年の3月にほぼ完成(ほぼというところが味噌で完全に完成するのはいつになることやら・・・)させて、
引っ越したい~!は心の叫び。

自分で実際にやってみて思ったことは、大工さんは本当にすごい!ということと、素人でもやればそれなりにできる!ということです。

素人チャレンジといえば、長野県の名物“野沢菜漬け”。昨年、妊娠中でできなかったカミさんの代わりに漬けてみて、すっかりはまってしまいました。今年は、子どもたちにも手伝ってもらい2種類漬けてみました。これがチチの味になるのは、いつのことやら。 力(私の名前です!)の力の抜けた“田舎暮らし”はマイペースで過ぎていくのでした。 ブログに日々の暮らしや仕事について更新中。ぜひ一度遊びに来て下さい。

「大学時代があってこそ、今の自分がある」 新村 洋一(9期生)

□現在の仕事

私は今、アフィリエイト推進部という部署に所属しています。
「アフィリエイト」とは、自分のウェブサイトに広告主サイトへのリンクを張り、利用者がそのリンクを経由して商品を購入すると、広告主から報酬がもらえるという仕組みのことです。私に課せられた使命は、このアフィリエイトシステムを使って、当社に出店している店舗様に リンクを張ってくださるユーザーさんを増やしていくことなのです。2007年の1月17日、「楽天市場」は、約1900万点の商品データベースを公開し、他サイトの運営者も楽天市場の商品を使えるようになりました。
この「楽天ウェブサービス」によって、他サイトの運営者が、自社サイト上に楽天の商品を自由に陳列できるようになり、楽天の商品を購入してもらえる機会が増えることになります。私は、このサービスを使ってくださるパートナーさんの開拓し、様々な提案をしていきます。ネット企業だけではなく、自動車会社やゲーム会社、携帯コンテンツ会社など様々なユーザ、企業と連携を取りながら、自ら仮説を立て、新しいビジネスの開発に取り組んでいます。

□大学時代について

大学時代は本当に私を大きく変える転換期でした。その理由は2点あります。
1.初めてパソコンと出会い、インターネットの楽しさを知ったこと
2.自分探しのできる環境があったこと

1点目
入学してパソコンを初めて触り、インターネットと出会い、本当におもしろいことが始まるとワクワクしました。
最初は自分がパソコンなんて使えるのだろうかと不安でしたが、授業のおかげで、逆におもしろい道具を与えられたと思うまでになったことです。この出会いによって私のあらゆる面でのフィールドが広がり、現在の仕事へと繋がっているのだと思います。

2点目
”自分探し”ができたこと
自分探しといっても、そんなに大袈裟なことではありませんが、恩師 齋藤先生からのアドバイスもたくさんいただき、自分が興味あることから考えて、行動を起こし、結果を振り返るトライ&エラーを何度も繰り返しました。まちづくりへの提案や、新宿紹介サイト運営などなど、インターネットを絡めて、いろいろと活動しました。また、講義も自分探し活動で立てた仮説が根底にあるため、非常に興味深く臨めました。

□今があるのは大学時代があってこそ

現在の仕事では仮説は何?とよく聞かれます。
”自分”を持ち、”自分の考え”を持っていないと生きていけません。

そのトレーニングができたのも多摩大時代があったからですし、行動を起こすフットワークであったり、失敗恐れずやらせてもらえる場を提供していただいたもの多摩大が最初でした。自分は何を考え、どう行動するのか?の基礎を作るサポートをしてくれた大学に感謝すると共に、OBとして胸を張ってこれからもがんばっていきたいと思います。